江戸期の諏訪 中山道及び その風俗

 目次
 1) 東山道
 2) 江戸時
 3) 入会論争
 4) 諏訪湖辺新田開発
 5) 八ヶ岳山麓新田開発
 6) 坂本養川の汐(せぎ)
 7) 農業と余業
 8) 綿から生糸へ
 9) 養蚕と生糸
 10) 寒天
 11) 諏訪鋸
 12) 氷餅(こおりもち)

1) 東山道

杖突峠から八ヶ岳山麓・北山浦を望む

 東山道(とうさんどう、とうせんどう、あずまやまのみち)は、山陽道・山陰道・東海道・北陸道・南海道・西海道と並ぶ古代の官道、五畿七道の一つである。大化2年(646)正月、大和朝廷は改新の詔を公布し、中央集権の強化策の一つとして、その2条で「初めて天皇の都を整え、皇居に近い大和、山城、河内、摂津の畿内4カ国に、国司や郡司を置き、国境には関所、砦を設け、斥候や防人と駅馬、伝馬を置く」とし、中央と諸国の国府を結ぶ官道の整備が図られた。官道には、大・中・小の格付けがあり、当時枢要な九州大宰府に通じる山陽道が大路、東北蝦夷地への侵出通路の東山道と東海道が中路、北陸道・南海道・西海道・山陰道は小路であった。その東山道は近江より美濃・信濃・上野・下野に通じ、古代の初期から開設されていた
 古東山道を改修・整備し官道とした。『続日本紀』には、大宝2年(702)、「始めて美濃国の岐蘇(きそ)の山道を開く」と記されている。当時、木曽は美濃国に属していて、「岐蘇の山道」とは神坂峠越えの東山道の開設であった。こうした官道には、30里(約16キロ)ごとに駅(うまや)が置かれた。官道や駅の制度は大和朝廷が政治上の目的をもって設置したものであることから、中央の役人の往来や軍事のための利用であった。
 律令体制では、諸国の宿駅に所属する家・駅戸(えきこ;うまやべ)が定められ、一定の戸数が指定されていた。駅馬の飼育や駅の経費に充てるため、租税免除で国から支給される駅田(えきでん;大宝令では駅起田と称した)の耕作などを受け持った。駅には、駅戸の中から選ばれる駅長(うまやのおさ)が置かれ、駅使(えきし;はゆまづかい)の送迎およびその事故の処置、駅鈴(うまやのすず)の検査、駅子(えきし;駅戸の課丁、言わば駅丁【えきちょう】)・駅馬(はゆま)・駅家(えきか;うまや)の管理監督を主な職務とした。10疋の駅馬を常備していたほか、佐久郡で5疋の伝馬(てんま)を置くなどの規則が設けられていた。伝馬は逓送用の馬で、律令制では、駅馬とは別に各郡に5頭ずつ常置して官吏の公用にあてた。
東山道は、近江国勢多駅を起点とし、美濃・信濃・上野・下野・陸奥の各国国府を通る道であり、陸奥国府・多賀城より北は小路とされて、北上盆地内にあった鎮守府まで続いていた。
行政区画で東山道に区分されていた上記以外の飛騨・出羽の各国国府には、幹線道路としての東山道は通っていなかった。飛騨へは美濃国府を過ぎた現在の岐阜市辺りから支路が分岐し、出羽国へは、小路とされた北陸道を日本海沿岸に沿って延ばし、出羽国府を経て秋田城まで続いていたと見られる。また、東山道から多賀城に至る手前で分岐して出羽国府に至る支路もあったと見られる。
上野国府からは武蔵国へ向かう東山道武蔵路が設けられた。元来、東海道は相模国から海路で上総国・安房国へ渡り、そこから北上して下総国方面に向かう経路が取られていたが、その後、海路に代わり相模国から武蔵国を経由して下総国に抜ける経路が開かれ、宝亀2年(771)旧10月27日武蔵国は東海道に区分された。なお、行政区画として東海道に区分された甲斐国府へ至る支路も、現在の中央本線に似た経路で存在していたと見られる。
平安時代、平安京との間の運脚(運搬人夫)の日数(延喜式による)は以下の通り。括弧内は陸路の行程日数で、前者が上り、後者が下り。上りの際は調と庸を携え、その他の旅費にあたるものも携行したため、下りの約2倍の日数がかかっている。
東山道:近江国府(1日/0.5日)、美濃国府(4日/2日)、信濃国府(21日/10日)、上野国府(29日/14日)、下野国府(34日/17日)、陸奥国府(50日/25日)
支路:飛騨国府(14日/7日)、北陸道:出羽国府(47日/24日)
信濃坂(信濃国境神坂峠)は、美濃国坂本駅(中津川市駒場の地)からの信濃路への急峻な峠越えで、岐阜県中津川市と長野県阿智村を結ぶ道筋であった。恵那山につらなる山並み、その中で一番低く見て取れる場所が標高1569mの神坂峠である。美濃国坂本駅から信濃国阿智駅間の距離は74里、現代の里程では約12里49kmで、標高差のある指折りの山道の難所であった。現代では、下を中央高速道路の長さで有名な恵那山トンネルが峰を貫通している。恵那山が2191mなので、比較して低く見えるが、越える者にとって、その高さと険しさは困難を極めた。『日本書紀』に、景行天皇の時、日本武尊が東国12道の荒ぶる神やまつろわぬ者どもを征服するように命ぜられ東征したその帰路に、神坂峠を越えたとある。鹿に苦しめられ、白狗の出現に助けられたという。神坂峠が既に、この時代から曲がりなりにも開通していた重要路であった。平安時代初期、最澄が信濃国を旅したとき、最難所である峠のあまりの急峻さに驚き、815年、広済院(こうさいいん)と広拯院(こうじょういん)を建て、旅人の便宜を図った。前者が美濃側で後者が信濃側で、それぞれ一軒ずつの「お救い小屋(仮設避難所)」である。1003年には信濃国司藤原陳忠(のぶただ)が谷に落ちて、家臣達が慌てふためく最中、谷底から主が「籠をおろせ」と叫ぶので籠をおろすと、平茸(ひらたけ)がいっぱい入れられ上がってきた。家来があきれていると、陳忠は「受領は倒れるところに土をも掴め」とたしなめた、という話で、やはりこの神坂峠付近が舞台です。いずれにしても、神坂峠の存在は大きかった。後世、木曽路が整備されてくると、平安、鎌倉期には通行頻繁だった神坂峠も、その重要性を失ってくる。
『続日本紀』には和銅六年(713)、信濃坂が難路であったので、吉蘇(きそ)道を開通するとあって、翌年2月、その工事に功があった美濃守笠朝臣麻呂(かさのあそみまろ)が、封戸70戸、功田6町の恩賞を賜ったことが記されている。駅路でない、単なる小径であった古道を改修して吉蘇路(きそじ)を開通させた。木曽は古代「吉蘇」の字が使われていた。木曽谷は伊那谷と比べると、狭隘な渓谷が続く山間の道である。耕地の敵地に乏しく古代集落の発達が遅れていた。しかし吉蘇路は、東山道が美濃から急峻な神坂峠を越える迂回路であったのに比し、美濃から木曽谷を経れば松本平への直路となり、その先の善光寺平を経て越後に到る要路でもあった。覚志駅(かがしえのうまや)で伊那から遡上してきた道と結ばれている。次の難所が青木村の保福寺峠越えで、上田へと通ずる道は険しい道であった。
この駅路東山道の原初の道は、大和国から伊勢・尾張・美濃の各国を経て信濃坂を越え、天竜川沿いに北上し、宮田駅(上伊那郡宮田村)を過ぎてから北東へ向かい、標高1,247mの杖突峠を越えて、急坂を下って諏訪郡へ出、更に東北に進み、縄文時代に繁栄を極めた湯川以北の北山浦の当時ほぼ無人の地を過ぎ、この時代、沼地だった白樺湖の大門峠を右折して、女神湖を下り、現在の長門牧場の北東にある雨境峠を越えて、春日(現北佐久郡望月町春日)に出る。更に佐久郡に下り、佐久平を北東に進んで碓氷坂に至ったと推定されている。筑摩郡を経由する道は大宝2年(702)に開通していた。東山道の最大の難所は、南の信濃坂峠、北の碓氷坂及びその中間にある現保福寺峠であったが、東海道には幾つかの大河が存在していることもあって、大和朝廷が陸奥・出羽への侵出に当たって次第に重要路線となり、奈良時代の中頃までその主要道路とされていた。
 ちはやふる 神の御坂に 幣(ぬさ)まつり 斎(いほ)ふ命は 父母のため 信濃坂にて 万葉集巻20防人の歌
 信濃路は 今の墾道刈株(はりみちかりばね)に 足踏ましむな 履(くつ)はけ我が夫(せ)  保福寺峠で 万葉集巻14東歌  
   ひなぐもり 碓氷の坂を 越えしだに 妹が恋しく 忘らえぬかも 
 最後の句の意味は、ひなくもりは碓氷を導く枕詞で、碓氷の坂を越える時は、国へ置いてきた妻のことが恋しくて忘れられない。防人の碓氷峠越えの別れの恋歌。   
信濃国における経路は、美濃国坂本駅から信濃坂(神坂峠;みさかとうげ)を越え阿智駅(下伊那郡阿智村駒場)に下り、伊那郡を下る天竜川沿いを遡上し、育良(いくら:下伊那郡伊賀良村)・賢錐(かたぎり;上伊那郡中川村.旧片桐村;上伊那郡の最南端に位置)・宮田(みやだ;上伊那郡宮田村;古くは伊那路交通の要所で信濃15宿の一つ。江戸時代は高遠藩領であった。)・深沢(ふかさわ;天竜川の支流深沢川が流れる上伊那郡箕輪町中箕輪)の各駅を経て善知鳥峠(うとうとうげ;松本平と伊那谷の境界をなす峠.表日本と裏日本の分水嶺をなす峠の一つで、標高889m。江戸時代中馬の道三州街道は、小野からこの峠を越えて中山道と合流した。長野県塩尻市)を越えて筑摩郡に入り、覚志駅(かかしのうまや;松本市芳川村井町。平安時代から信濃国府が置かれた)を経て、錦織駅(にしごり;上水内郡【かみみのちぐん】四賀村【旧保福寺村】錦部)に出る。この駅は保福寺峠越えの重要な駅であった。峠の名は宿の東端にある曹洞宗保福寺に由来する。江戸時代保福寺街道保福寺宿に、松本藩の保福寺番所が置かれていた。そこから保福寺峠越えとなる。明治になって英国の登山家ウェストンが保福寺峠で、北アルプスの連山の展望に感動し日本アルプスと命名した話は有名である。江戸時代は手前の刈谷原宿が、北国西街道(善光寺街道)との分岐点として栄えた。やがて鉄道の開通・車社会の到来で、二筋とも殆ど使われない道となった。
本道は東に方向を転じ、保福寺峠を越えて小県郷浦野駅(うらの)に至る。今の小県郡青木村に隣接する上田市に浦野の地名が残る。駅の場所は特定されていないが、東山道の難所保福寺峠越えの重要な駅であった。亘理駅(わたりのうまや)は千曲川を渡る重要な駅で、千曲川畔に設けられた駅(うまや)で、伝馬10疋をそなえていた。その場所 は、現在の上田市常磐城と推定されている。従来信濃国府は上田市亘理周辺にあったと考えられていた。近年の屋代遺跡群の発掘調査により、その定説を変えざるを得ない木簡が発見された。
森将軍塚古墳に近い屋代遺跡から出土した木簡には、年紀(乙丑【(きのと うし】年=665年)が書かれ、その裏面に「『他田舎人(おさだのとねり)』古麻呂」と氏名と名が記されていた。全国最初の地方「国符木簡」の出土で、信濃国司から更科郡司等に対する命令の木簡であった。また、「信濃団」の文字が記された木簡もあった。亘理駅から屋代にあったと思われる信濃国府に通じる道が当然あったはず、即ちその道が、後の鎌倉街道となったものと考えられるが、現在ではその道筋も、伝承もない幻の街道となっている。千曲市の東山道も、後の鎌倉街道も、千曲川の洪水によって流失したあと、村上時代に山の裾野に街道が開かれたからで、そこに鼠の宿も設置された。
亘理駅で千曲川を渡り、上水内郡の多古(たこ:長野市三才から田子付近)・沼辺(ぬのへ:上水内郡信濃町野尻または古間)の良駅を経て越後国に至る支路があった。それぞれ駅馬は5匹であった。亘理駅で千曲川を渡り、佐久郡清水駅(小諸市諸)・長倉駅(ながくら;軽井沢町の長倉;中軽井沢の北隣)経て、碓氷坂を過ぎ、上野国坂本駅へ至る路となる。小諸市諸にあった清水駅も、信濃にある15の駅の一つで、当然水の確保も課せられていた。水の豊富な諸にはうってつけであった。清水駅は全長約270mあり、中央の道路をはさんで両側に、間口およそ22m、奥行およそ45mの地割をして駅の役人たちの屋敷にした。道路の中央には駒飼(こまがい)の堰を通し、また屋敷北側の後ろには飲用の堰を流し、それに沿って小道が通じていた。  

2) 江戸時代の街道整備
 東海道とともに江戸時代の五街道の一つとなった中山道は、この時初めて敷設されたというわけではなく、その前身を東山道と呼ばれる古代から中世にかけて西国と東国を結ぶ重要な街道が既にあった。
 この東山道というのは、文武天皇の頃(697-707)に始まり、「近江・美濃・飛騨・信濃・武蔵・下野・上野・陸奥」の8カ国を指し、和銅5年(712)にはこれに出羽が加えられ、宝亀2年(771)には武蔵がこれから外され東海道に移された。 このように古くは東山道とは、その域内の国々を集めての総称だった。その東山道が道の名としても用いられるようになったのは、孝徳天皇の大化元年(645)に始まる大化の改新以降のことであった。
  中山道の名前 は「只今迄は仙の字書候得ども,向後山之字書可申事」(江戸時代の幕府道中奉行の役人が使用した『駅肝録』による)、「五幾七道之中に東山道,山陰道,山陽道いずれも、山の道をセンとよみ申候。東山道の内の中筋の道に候故に、古来より中山道と申事に候」(正徳六年(1,716)4月触書) とあるように、正式には「ナカセンドウ」と読み、「中山道」と書くのが正しいのです。江戸から京都へ上がる東海道,北陸道両街道の中間の山道というので中山道と呼ばれた。
天正18年(1,590)8月1日、徳川家康の江戸入りがあり、以来10年を経て慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの後、事実上天下の兵馬の権を握った家康がまず手をつけたのが道路の整備であった。家康が、全国の諸侯に対する政治力を意識し、また軍事的な意図もあって、街道などの整備を本格的に実施するようになった。慶長6年(1,601)から徳川家康は、江戸を中心とした5街道を官道に指定し、その整備を命じた。そして同6年の彦坂元正等による東海道の巡視を基にして、東海道を日本橋から桑名へ、伊勢湾を渡り鈴鹿を越え水口を経由、京都に至る宿駅は53箇所の東海道五十三次を定めた。続いて慶長9年(1,604)には、東海道、東山道、北陸道などの修理を行い、一里塚を築き、道沿いには松並木を植えるなど、街道としての敷設が着々と推し進められた。引続き”中山道”・東海道・奥州道中・甲州道中・日光道中の五街道を幕府の直轄地として、万次2年(1,659)には、大目付高木伊勢守守久を初めて道中奉行に任命し、その管轄下に五街道を置いた。さらにそれらからの支線として、中国道、佐屋路、姫街道、北国街道、長崎路など数多くがあった。中山道と交わるものでは、甲州街道、北国街道、信州街道、善光寺街道、伊那街道、姫川街道などがある。
  中山道は,昔の東山道の一部路線を変えて、新たに営まれた街道で、江戸時代になって急に重要視されたものではなかった。まず大和朝廷の勢威が伸びるに従って、政治・経済・軍事など諸々の必要から、道の多くが整備された。唐制にならってそれが国家的な制度になったのは、大化改新(645年)以降で、すなわち「大宝制定」の令によれば、当時の国家として都と九州太宰府とを結ぶもっとも大切な山陽道を大路といい、次に大切な東海道、東山道を中路といい、そのほかの北陸道・南海道・西海道・山陰道を小路とした。また、道に沿っておよそ30里(江戸時代の5里,約19.6キロ)ごとに駅を置き、駅ごとに駅馬、伝馬を備え、馬使用の許可証として駅鈴や契(割符)なども造り、また関所を設けるなど、大体が唐制にならっている。これらの道の設置、整備を行ったのは、国司の移動や調庸・戸籍などの都への送り届けや、その他の用務で官吏が公式出張する際の官道として便宜を図った。なかでも川や津には船を備えたが、もっとも注意をはらったのは、架橋であったと言われている。大路に準ずる中路とされた東海道、東山道は、大化の改新以降、平安時代にかけてたえず行われた東国の経営の要路として重要視されてきた。そして東海道は海沿いで、大河を渡る難はあっても平坦な大動脈であり、東山道は山坂の険阻に困難を極めるが、日程が読める大動脈として、街道としては対照的な性格をもっていた。
 東山道は、都から近江・美濃を経て信濃に入り、今の落合川から神坂峠を越えて伊那に至り、小県郡青木村の保福寺峠越えて塩田平に下り、小諸の北から碓氷峠を越えて関東に下る。その駅名はすでに「延喜式」に記載されています。
さらに木曾川を遡り、安曇野に出る木曾路の工事は早くも、大宝2年(702)には着工され、これも官道として東山道とともに用いられ、後に伊那路にかわって中山道の一部として長く役割を果たすこととなる。
しかしながら平安時代半ばに荘園が発達してからは、荘園制度の濫用などの事情によって駅制が維持できず、同じ頃からの商業の発達に伴い海運が盛んとなったため、駅制による陸路交通は振るわなくなった。しかし、中世の武家政治の時代になると、鎌倉と京都との間の交通や通信の必要性が切実なものとなったので、武士によって新たな駅制が敷かれた。ところが室町時代から、その末期の戦国時代になると、土着の武士たちが居城を中心とした領域内の道路確保と隣境の防砦(ぼうさい)の固めを重視する。
こうした変遷をみてもわかるように、中世までの街道の施設は、すべて官吏や貴族、武士といった支配者階級のためのものであり、一般庶民のためのものではなかった。今に伝わる物語や紀行文学によっても明らかなように、庶民の旅といえばまったくの野宿の旅であり、食事も野天(のてん)の自炊といったもので、必然、旅の途中での餓死者も珍しくはなかった。
 商業の発達により、庶民階層の街道の使用が活発になると、次第に宿を営む者も出、さらに遊女を抱えた宿も登場してくる。このような宿の発達により、近世的な宿場町の原型が、中世の各街道筋でみられるようになってきた。
やがて、関東に小田原北条氏が割拠し、戦国時代に入ると、倉賀野・高崎・板鼻・安中・松井田・坂本の六宿を創設、また下諏訪・塩尻・洗馬・贄川・奈良井・薮原・福島の七宿は武田氏が伝馬の継立を行なうなど、東山道から中山道への移行期以前に、既に宿駅が設けられ始めていた。
そして長い戦国時代がようやく終局に近づいた豊臣秀吉の時代になると、ここに再び街道の改修がなされ、乱立していた関所の整備などが行われ、全国的な交通網が整備されてくる。徳川幕府はこれを引き継いで、完全な宿駅制度を整えていく。それは、徳川幕府百年の政権維持を図るという目的と、また日本全国の大名に対し、潜在的な軍道を完備させて、徳川幕府の武威を誇示しようとする意図が秘められていた。特に3代将軍家光が参勤交代の制を寛永19年(1642)5月発令してからは、各藩から江戸に通じる街道の整備はさらに重要なものとなってきた。この制度は、大名統制の1つとして寛永12(1,635)年の「武家諸法度」で定められ、翌19年に整備された。参勤交代の往還の道筋は諸大名ごとに厳しく指定された。結果、東海道は159藩、中山道は34藩、日光道中は6藩、奥州街道は17藩、甲州街道は3藩、その5街道以外の水戸街道は25藩とされた。
そしてまた日光東照宮への社参、京都への将軍家の伺候、京都からの勅使の派遣、琉球や朝鮮からの使者の往来などの公的旅行のほか、貨幣制度の完備、増大する商業物資の物流などもあって、商用・私用の庶民の旅行の数は激増した。大山・江の島・鎌倉詣、お伊勢詣、金比羅詣、御獄詣、出羽三山参詣など、遊興を兼ねた参詣の人々、それも講中という多数の人々が団体で旅するようになったのも、宿駅制度の発達による。しかし同時に、この参勤交代の制度のために、沿道の住民が助郷に駆り出される苛酷さは大変なもので、これが百姓一揆の原因ともなった。また諸大名にも、過大な財政負担となり、武家政治が終焉する要因ともなった。
徳川家康大久保長安に命じ、中山道の整備を開始させた。中山道は、日本橋を基点として板橋から大津まで69駅131里で、慶長9年(1,604)に永井白元・本多光重が命を受け一里塚を作った。その一里塚は、江戸幕府の命により、諸街道にも築かれた。塚の大きさは五間(約9m)四方、高さ一丈(約3m)で、1里ごとに、道の両側に設けられ、塚の上にはふつう榎を植えて目印とした。江戸日本橋からの里数が表示されてあり、旅人にとっては、行程の目安となった。場所によっては、榎のほかに松や杉を植えたところもあり、栗・桜・梅・桃や竹もあった。もっとも、塚に木のないところもあれば、木が片側にしかないものもあった。一里塚は、一里=36町(丁)=3.93kmごとに築かれた。 
中山道は、先述するように古代より開かれた東山道の一部路線を変えて、新たに定められた街道で、碓氷峠から佐久平を過ぎて和田峠を 越えた。この道は和田峠を越して下諏訪に入り、東堀村から旧塩尻峠をぬけて、木曽路に入る。これにより諏訪地域に下諏訪宿が置かれるようになった。下諏訪宿は中山道で唯一温泉が湧き出る宿場で、温泉の湧き出る箇所を結んで旅籠が発達した為に、Uの字に曲がった宿場となった。中山道で最も険しいとされる和田峠を控えた宿場でもあったため、多くの旅人で賑わった。和田峠は5里(1里=36町【丁】=3.93km)と道のりは長く、また中山道第一の高く険しい峠道であった。それで大樋橋を渡り和田峠を上る約20町(2Km)ごとに樋橋(とよはし)・西餅屋・東餅屋などに茶店を設け、その補助として年1人扶持(米4俵)の補助を与えた。また茶屋は立場(たてば;街道沿いで人夫などが籠などを止めて休息するところ)として人馬の乗換えにも利用された。
諏訪の平からは善知鳥峠(うとうとうげ;塩尻から小野に通じる)を越え、小野で右折し樽川沿いで牛首峠を越え、木曽路の桜沢に抜けた。それが後に塩尻峠に変わり、奈良井宿から鳥居峠を経て木曾谷を下るようになった。街道としては、慶長7年(1,602)に伝馬制度が布かれ、その駄賃まで定められ、同9年には樽屋藤左右衛門、奈良屋市右衛門が工事を担当して、道路を改修し、一里塚が築かれた。さらに同17年には木賃(きちん)と宿賃が定められ、道路の修築・架橋が行われ、元和2年(1,616)には人足賃や駄賃が改定され、寛永年間には参勤交代の制度にともなって本陣が設けられた。街道の宿駅の数は板橋から近江の守山までで67、草津と大津を加えれば69となる。他には、人足の休息にも供せられた茶室があり、関所も碓氷と木曽福島とに設けられた。しかしこの東山道は、太平洋岸に面し温暖で平坦な東海道が次第に整備されるにつれ、しばらくは裏道的な存在となった。
参勤交代による諸大名の往復経路は一定しており、時期も定めてあって、一時に2つ以上の大名が通る混乱を避けた。中山道を利用する大名の数が、東海道に比べてひどく限られていたのは、宿泊施設が少ないためであった。しかし降雪時季を過ぎると、遠方からの大名は、6、7月になると急に増えてかなりの賑わいをみせた。このように東山道、中山道の変遷のもとに、人、交通、経済、物流、文化等の全ては「道」を通じて発展をしてきた。こうして発展した中山道は、東海道とともに江戸と京を結ぶ重要幹線として生き続けた。幕府の旗本などで大阪勤番の者は、往路は東海道、帰路はのんびり中山道を利用する例が多く、また東海道のように河留めの多い大井川、あるいは浜名の渡し、桑名の渡しなど川越による困難がほとんどない故に女性の道中に好まれることも多く、幕末の和宮の降嫁がこの中山道を利用したのはその良い例といえよう。
 東海道    品川より大津まで53次 

 中山道    板橋より守山まで67次
 日光道中   千住より鉢石まで21次
 奥州道中   白沢より白河まで10次
 甲州道中   内藤新宿より下諏訪まで44次
中山道が一般には69次としているのは草津・大津を入れているからで、実際は共に東海道の宿駅。
   街道名前の由来
   一、東海道   ; 海端を通り候に付、海道と可申事。 
   二、中山道   ; 只今迄は仙の字書候得ども向後山之字書可申事。
   三、奥州道中  ; 是は海端を通り不申候間、海道とは申間敷候。
   四、日光道中  ; 右同断。
   五、甲州道中  ; 日光道中同断。
 右の通向後可相心得旨(正徳六)申(1,716)4月14日河内守殿より松平石見守、伊勢守江仰渡候。
 日本橋→板橋→蕨→ 浦和→大宮→上尾→桶川→鴻巣→熊谷→深谷→本庄→新町→倉賀野→高崎→板鼻 →安中→松井田→坂本→軽井沢→沓掛→追分→小田井→岩村田→塩名田→八幡→望月→芦田→長久保 →和田→ 下諏訪→塩尻→洗馬→本山→贄川→奈良井→薮原→宮ノ越→福島→上松→須原→野尻→三留野→妻籠→馬籠→落→中津川→大井→大湫→細久手→御嵩→伏見→太田→鵜沼→加納→河渡→ 美江寺→赤坂→垂井→関ヶ原→今須→柏原→醒ヶ井→番場→鳥居本→三条大橋また、江戸から甲府を経て中山道の下諏訪宿と合流する街道として甲州道中が整備された。内藤新宿を第一宿に、甲府に通じた甲州街道も5街道の一つ、それが伸びて下諏訪宿で中仙道と交わった。
 諏訪郡富士見町境、北側の八ヶ岳山麓と、南側にある入笠山と甲斐駒ケ岳の間、釜無川沿いが甲州街道
諏訪地域の宿場としては、上諏訪宿(諏訪市)、茅野宿(茅野市)、金沢宿(茅野市)、蔦木宿(富士見町)があった。甲州道中を使用して江戸へ参勤交代をする大名は、飯田藩(堀 大和守 2万石)、高遠藩(内藤 駿河守 3万3千石)、高島藩(諏訪 伊勢守 3万石)の3大名で、前者2大名は杖突峠を下りず、金沢峠に向かい、金沢宿・蔦木宿を経て江戸に出た。甲州道中は御茶壷道中や地方に領地を持つ旗本が通行する街道であった。御茶壷道中とは、将軍のつかうお茶を、宇治から江戸へ運ぶ行列をいう。9代将軍・家重の頃までは、中山道を下諏訪まで来て、上諏訪を通る甲州街道を使った。金沢宿・蔦木宿を経て、甲府から笹子峠を通って大月から都留に到って秋元侯の居城・城山の3棟の御茶壷蔵に納められた。御茶壷道中は、将軍御用なので将軍と同格に扱われた。子供などは、お通りのとき不都合が生じないように、「トッピンシャン」と家の中に閉じ込められた。
また家康の命日には、朝廷は日光東照宮に日光例幣使を遣わした。道筋は中山道を通り和田峠・碓氷峠を越えて日光に向かったが、帰りは江戸から東海道を使った。日光例幣使は、毎年京都から日光に参拝する勅使であるが、4月8日に下諏訪宿に泊まる。この一行は、賃料・宿料を払わないどころか、出掛けに草鞋銭を要求した。貧窮にあえぐ公卿の旅稼ぎであった。
文化6年(1,809)、9月23日に伊能忠敬は和田峠から上諏訪方面を測量し、同8年4月19日に三河から伊那を測量して諏訪に至り、甲州街道を測量しながら江戸に帰った。
文政3「1,820年、十返舎一九が甲府から諏訪に旅をし、さらに伊那の大出に向かった。

3)入会論争

茅野市宮川にある諏訪大社上社前宮は、守屋山の麓、前方が上原
諏訪と伊那の境には釜無山系が入笠山・守屋山・真志野山と南北に伸び、諏訪では西山という、急斜面の地形ながら古くから集落が発達していた。その尾根を越えた伊那側は緩斜面で裾野が広いが、集落が点在する状態であった。そして伊那地方は古代にあっては諏訪の国に含めることが多く、中世でも諏訪氏と同族の支配下にあったため境界線ははっきりしていなかった。さらに諏訪の住民は当然のように尾根を越えて、建材として木を伐採し、燃料として薪炭用に、田畑の肥料・牛馬の飼料として草・笹・柴(に使う雑木の小枝など)・萱など採取してきた。天正のころ棚瀬川の峡谷・には鉱山があって、真志野村から盛んに採鉱の人がはいった。同時に真志野村から後山に開拓者が入り天正18(1590)年の「真志野村外山畠帳」には、筆数300、高96石3斗8升の記録が記載されている。しかし椚平鉱山が廃鉱になると放置された。関が原後、徳川家より共に旧領に帰封されて諏訪氏・保科氏が初めて領地を接すると、諏訪の領民が昔からの慣行として、尾根を越えて、後山・椚平・上野・板沢・覗石・などの守屋山西南山麓に入り、草木を採取することが伊那側との境界論争を呼ぶようになった。諏訪の領民は往古からの領有を主張して、江戸の評定所で高遠藩と争うこととなった。 幕府は評定所での解決は無理と知って、飯田藩主小笠原秀政に解決を図らせた。秀政は信濃の諸大名と図り、西山の稜線から伊那よりに大分寄った後山・椚平・上野・板沢・覗石までもの領有を高島藩に認め、諏訪の領民の主張よりの裁決をした。しかし、高遠領民の納得は当然得られず後々までも争いが生じた。それは藩内解決は当然無理で、江戸へ出ての訴訟となり、その莫大な費用負担を領民に課せられた。
 。
 一例として片倉山山論の事件がある。諏訪領民は神宮寺・宮田渡・上金子・中金子・福島・赤沼・飯島・高部・小町屋・安国寺・中河原・新井の12ケ村と高遠領の片倉・の2ケ村との長年の山論であった。当初は草木はさほど問題にならなかったが、諏訪領民の採取が頻繁になるにつれれ大問題となった。
 元禄3(1690)年、真田伊豆守の家臣・久保田義太夫による伊那と諏訪の山野境界の高遠検地の際、双方とも長年の慣行というだけで、確たる証拠なく、片倉村側では「高島領12ケ村から毎年山手米を受け取り、入会場所は4ケ所だけである」と申し立てた。高島領12ケ村は「4ケ所以外に数ヶ所、入会地がある」と反論した。久保田義太夫は実地検分の結果「大海道(杖突海道)から北西は分杭から本沢まで絵図面通り入会、大海道から東南は沢水ないし小道上場通りよけまで、それから東作り道まで見通し、その間の北東の内入会」と、双方立ち会い境界確認して手打ちとなった。これにより双方の名主・長百姓が連署し、取替手形(元禄3年7月「差上申一札之事」)を交換した。この片倉山山論で、諏訪側12ケ村の総費用は143貫178文となり、翌年8月15日に遠近、村高などで各村割り当てが決まり、最高は高部村の75貫文、神宮寺村は15貫40文であった。同年諏訪側12ケ村は、それぞれ山手米を納めている。一方は、諏訪高部・福島の両村から山手米1石2斗5升3合と口米3升8合を受けている。



 その他、他領との境界論争では、塩尻境界論争がある、70年も争い寛文5(1665)年に採決された。佐久境界論争では、蓼科山麓で慶安年間(1648から1652)から始まり、鉄砲を撃ちかける事件まで生じたが、延宝(1677)5年に裁許状が下りた。八ヶ岳論争は、甲州との国境問題で、寛永(1624~1644))年間から争い正保(1645)2年3月に裁許状が下された。但し、一応、裁許を下されたものの、依然ととして後々まで入会地闘争は続いた。
 山野は人類が原初的に存続するための糧であったが、一切の生活資源であることは今日も変わりない。それが古代か中世へと文明の発展と共に利用価値が増すと同時に、地域々々の権力者の領有が進み、自由に採取できる環境が狭まれてきた。その一方、江戸時代、次第に開拓が進み農地が増え、その結果、文化の発展がすすむと城下町・宿場町・門前町の建設が促進され、その建材として日常の燃料、田畑の増大に伴う肥料としての苅敷(山野の草または樹木の茎葉を緑のまま田畑に敷きこむことをいうが、かつて地力維持の重要な手段であった。)、家畜の飼料などの需要が急速に増した。その上、初代藩主・頼水、2代・忠恒、3代・忠晴と新田開発が盛んになされた。結果、諏訪湖周辺のみならず、広大な八ヶ岳山麓一帯にも、多くの新田村が出現した。供給源の原野は開墾され、山野も乱獲が進み、荒廃していった。また中洲やも開拓され草地が減少した。慣習的に共同利用されていた(自村が権利をもつ山野)ではまかなえきれず、他村・他領の山野にまで侵さざるをえなくなった。

 山手米(山野使用料)を納めて、境界線・採取物・採取道具・時期・順番・入山道等を細かく誓約させられて、地元村との入会権の確保がなされたが、それも需要の増大と伴に守りきれず、新たな紛争へとつながった。

 高島藩領内の入会紛争は、藩の奉行所で扱われ裁許されたが、長引きがちで費用がかさむ上、奉行所まで幾度も出かけなければならず、その労力も大変であった。元禄のころになると仲裁人としてが現れ、内済で解決して扱い人共にの連署で誓約されるようにもなった。

 だが隣接する高遠藩・伊那領・松本藩などの他領との入会紛争となると、江戸の評定所の裁定となり、江戸へ出掛けての訴訟のため農民の費用・労力の負担は大変なものであった。高遠藩との争いで、そのとき生じた借金の返済ができず神宮寺名主・与次右衛門は家屋敷を失っている。

4)諏訪湖辺新田開発

満水堀 
 頼水が諏訪に戻って最初に着手した1つに諏訪湖の開拓があった。水深の浅い諏訪湖は、少し水位を下げただけで、中筋方面にも、下筋方面にもたくさんの水田ができる。また湖面をさげることは、従来の水田の水害予防にもなる。頼水は高島城の水城としての要害を犠牲にしても、干拓を進めた。まず釜口の北側にもう一つの排水溝を作り、天竜川に2筋の湖水の出口を作った。これが元和元(1,615)年完成の満水堀である。

この時、釜口に島が残った。弁天社があったので、弁天島と名づけられた。これにより湖岸にたくさんの葦原の湿地ができた。盛り土をして水田とし、いままでの湿田が良田に変わった。

新堀
 満水堀のお蔭でできた新田も、地形状、夏季の洪水時期になると水没の被害が続出した。さらに水位を下げようと、弁天島の中央を穿ち排水溝を増設した。天竜川への排水は3筋となった。弁天島は2つの島に割れた。北側を浜中島、南側を弁天島とした。このころには、高島城の天守閣の石垣に寄せていた諏訪湖の波も遠く退いて、辺りは広大な水田となっていた。水田が広がれば、洪水の被害も拡大した。平成の現代でも、水田あとに広がった市街地が、大雨が続くと冠水することは稀でない。

また、その当時、八ケ岳山麓の高原台地・山浦地方にも新田開拓が活発に進んでいた。そのためかっての広大な山林が消滅して、益々下流の諏訪湖畔の洪水の被害が広がった。被害をこうむる天竜14ケ村は、釜口の薮刈、川浚い、流水ゴミの始末に結束した働いた。天明・文化には大規模な天竜川浚い(さらい)の工事が行われた。

浜中島の撤去
 文政14年、史上類のない大洪水が発生、大凶作となった。藩は有賀村の伊藤五六郎に来年中を条件に、浜中島の撤去を請け負わせた。時に、五六郎22歳。藩の許可を得て、長さ15m、幅3mの大船を作った。乞食その他の浮浪者を集めて、浜中島を崩した土を大船に乗せ、有賀村近くの湖畔の湿地を埋めた。そこに6町歩の田圃ができた。今日の中曽根の一部「五六郎田んぼ」と語りつがれている。延べ1万6千人と1年を要して天保元(1830)年12月に完成した。

 この完成後も、水害は広がるばかりであった。新たに広がる湿地をみれば、人々はそこを埋め、新田を作り部落ができる。地形状の欠点はそのままであった。

弁天島撤去
 弁天島は葛飾北斎が描く富士36景の1つ、名勝の地であり、その弁天社は家老・千野家の篤い信仰を受けていた。明治元年9月、藩主・忠誠は、14ケ村の弁天島撤去の願いを受けて、14ケ村請負で許可した。半月で完成した。

 この結果、頼水の頃、527.2km2の流域があった諏訪湖の面積は、14.322kmしかなくなった。しかし短期の氾濫は終らない・・・・・


5)八ヶ岳山麓新田開発

 八ヶ岳の西斜面は中腹から緩やかで、南の釜無山系まで、広大な裾野を形成していて、その一帯を総称して「原山」と呼んでいた。「旧蹟年代記」には、「総名原山の地、大堺は嶽山(八ヶ岳)迄、南は高(立)場川迄、この川中に堺塚あり、原山地柳川の川中堺、西は宮川を堺、下は新井村赤田新田三本松迄、夫より上原村のより見通し、北は中道、槻木沢、東うけのと鬼場川堺」云々と記されている。

 頼水は諏訪湖の新田開発と同時に、八ヶ岳山麓の干拓も始めている。当時、原村一帯は広い荒野であった。古くから諏訪神社上社の神野(こうや)として、諏訪明神の御狩場として神聖視され、御狩の神事(5/2)、御狩の神事(6/27)、御射山御狩の神事(7/2から)、御狩の神事(9月下旬)などがあり、3月には神使御頭祭(酉の祭)の御贄の鹿も原山神野で求められていた。古代より鍬を入れてはならないとされていた。また水源が少なく農耕に適さなかったことも事実であった。ただ採草だけは許されていたようであった。

 それでも、鎌倉時代の承久元(1219)年の「諏訪十郷日記」によって、田沢・青柳など神野周辺に村ができ始めたことが知られる。室町時代の「諏訪大明神画詞」には、粟沢・神乃原・中沢(なかつさわ)などの村名が見られる。それでも御射山社周辺の神野は手付かずだった。

 頼水は藩の重要政策の新田開発に、原山に目をつけ神野の開拓を命じた。慶長15(1610)年正月、遂に原山新田(中新田)が誕生した。青柳の金鶏金山の抗夫が、金山閉鎖後、生活の糧を得るために成功させた事業だった。

 原山新田に与えた頼水自筆の定書(さだめがき)等が現存する。
 慶長15年正月
 原山新田の儀は四カ年の内つくりとり致すべく候事
 役永く免許せしめ候事

3月6日付け定
 地は四カ年荒野たるべきこと(4年間無税)
 役免許のこと(お伝馬、川除け、道普請の課役免除)
 走者一切停止のこと
 方五十町の間草木わき郷の者にとらせまじきこと(薪、草などの採取地の保証)
 次通り新町通るべく候、上道はきりふさぎ、人通らざるとうに仕るべきこと
と、実に細やかな内容から、頼水の新田開発の意気込みが知れる。

この新田開発を実地に指導し援助したのが、弟・二ノ丸家老・頼雄であった。現在も、中新田の人々は、頼水・頼雄を氏神様として祀っている。
 寛永8(1631)年、11月21日、山田新田(茅野市玉川)が藩から新田完成の認定を受けている。つづいて元和元(1615)年の八ッ手新田を始め、払沢・柏木・大久保・菖蒲沢・室内など、80余りの新田が成功している。慶長から寛永・正保・慶安(1648~1651)の頃迄である。
 当時、肥料を自給するため、水田はその3倍、畑には2倍の草地が必要であった。採草地を開墾すれば、益々自給が困難になってきた。
 原山に入会権を持つ村は、北山浦を始め宮川沿いの古村や、大熊・神宮寺・宮田渡・赤沼・神戸・飯島・上金子・下金子・福島など63ケ村に及んでいた。

原山草論の始めは、貞享5(1,688)年の立場川東広原の草場論で、立沢村が中新田の入会を排除しようとした。郡奉行の吟味で「先規の通り」と裁許されている。
 中筋の田部・飯島・上金子・中金子・下金子・福島・新井の7ケ村は古来持山がなく、原山、富士見方面に入会をしていた。2代藩主・忠恒のころには、田作りのため早草刈を願い出ていた。結果、高部からうえの新井・粟沢から、木之間・から高森まで、御林の外はかまい無く刈り取りを許された。
 それが正徳元(1711)年6月、郡奉行へ提出した口上書によれば、御射山神戸山居くね(屋敷林)は、前々から刈敷用に夏草を刈り取りしていたが、当春、急に制限された。それに中筋の者には御憐れみをもって茅野の御林刈敷を下されたが、これも茅野・金沢の内林として拒まれ、木之間の入会は、神戸村に限り、中筋の者には刈らせないといわれたと訴え出ている。この結末は不明だが、原山は広いが、多くの入会村が入り組み、文政・天保・と草論が絶えず、そのつどの訴願状や裁許状が残されている。さらに原山草論を複雑にしたのが、中筋の飯島・上金子・中金子の村々が、柏木・菖蒲沢・木船周辺に山畑・林畑・下田など開墾をし検地を受け、それぞれ津高も決められていた。享和3(1803)年、新開畑を狭めるとして、「新開畑潰し願い」が出されている。

6)坂本養川の汐(せぎ)

 諏訪の新田開発の勢いは元禄のころに一時衰えた。これは開発できる土地がなくなったためではなく、当時、水利の技法がなく、自然の河川の流れに即していくしかなかった。水さえあれば、開田できる空閑地はまだまだあった。八ヶ岳山麓、柳川から立場川の広大な台地は、水利がなく草刈場として放置されていた。このとき新しい用水体系を工夫したのが天明年代の坂本養川(1736~1809)だった。養川は16歳で家督を継ぎ、23歳で名主になるが、18歳の頃から、近畿一帯を旅し、土地開発の実情を見聞し、その後江戸に出て21歳から8年ほどかけて関東7か国の詳細な開田計画を立てている。これは病を得て実現できなかった。

諏訪に戻った養川は、蓼科山から流れる豊富な水量の利用を考えた。滝の湯川や渋川の余り水や各所の出水を繰越汐(くりこしせぎ)の方法で、農業用水として八ヶ岳山麓に流すことだった。自然の川が、谷に沿って流れ下るのに対して、汐は等高線に沿うかのように、一部では谷を超えて、山肌を横に流していく、滝之湯堰や大河原堰など新しい用水路の開削によって農業用水を作り、水稲の収穫高を飛躍的に増大させようとした。この計画を安永4(1775)年12月、家老・(二之丸家)諏訪大助に願い出た。貞享
養川の一大水利事業計画は、高島藩の混乱期(二之丸騒動)でもあり、その当時の家老に人材を得ず、一方、藩主・6代忠厚は病弱で帰国することが少なく藩政をかえりみない最悪の状態の中で許可が得られない。養川は山浦地方の模型を作って、柳口の役所に説明に出向いたり、郡奉行・両角外太夫の実地見分を実現したりしたが、計画の採用に至らない。

そのうえ湯川や芹ケ沢の水元の村々で、自分の水利が侵されると、養川の暗殺計画まで図る者まで出現する。
蕃の騒動は、天明3(1,783)年、二之丸家断絶と蕃主・忠厚の隠居で結末を見た。高島蕃は多年の財政難の上に、この事件の失費と天明3、4年の大凶作で、流石の頑迷固陋な家老・(三之丸家・二之丸騒動の勝者)千野兵庫も養川の計画に期待するしかなかった。天明5年2月大見分、7月18日普請の開始、寛政12(1,800)年までに約350町歩の開田を成し遂げた。
養川の工夫は単純な用水路の開削だけでなく、渋川の流れに魚住まず、その水は稲作に適さない、それで幾度かの繰越汐をへて他の水と混ぜることにより水質の改良を行っている。
養川は享和元(1,801)年、小鷹匠の藩士となり16俵2人扶持と抜高(免祖地)15石を与えられる。大正4年11月の御大典に、従5位を追贈される。歴代高島蕃・藩主と同位である。
養川の汐は山浦地方に膨大な水田を生み、その生産の恩恵は後世に及ぶが、もともとあった旱魃時の水争いはより頻繁になり、農民同士の血の抗争はより激しくより拡大した。これは、諏訪湖辺の開拓につうじるものがあった。時代の限界としか言えない。ただ頼水・養川の功績は大きい

7)農業と余業

 諏訪は固い地盤の上にあり、意外にも地震の損害は、赤沼(諏訪湖の南側、四賀の平坦地にあった村。ここにはカッパが住むと言われていた茅葉「ちば」ケ池があったと言い伝えられているように、渋水で赤く濁った湿地があちこちにあったので、赤沼と呼ぶようになった。)・島崎に例外的に記録される。火災も城下町に発生してるが、それほど多くはない。諏訪の災害の最たるものは、河川の洪水と湖水の氾濫であった。四囲の名だたる山岳から流れる各所の河川は、諏訪湖に集まるが流出口は天竜川のみ、少しの長雨でも水害が発生する。まして多年の治水工事よる大規模な新田開発の結果が、水害の規模を益々拡大するという皮肉を生んだ。
 また江戸時代全国的に多発した冷害の被害は、高冷地のため諏訪郡は頻度も程度もはげしかった。蕃は随分郡民思いの対策を講じている。その結果が、江戸時代一揆の発生がなかったという稀有な蕃となりえたのだろう。蕃の施策は、新田の冠水が頻繁な村には、定納を求めず、年々、検見してこれを定めた。小和田村(諏訪市役所の北側・大手辺り)にいたっては村高がなかった。飢饉のときは、粥の炊き出し、富裕者の翌年の苗の支給を求めた。

8)綿から生糸へ  
                           
 諏訪の家内工業は、早くから発達をみた。その大きな理由として、高冷地のために気温が低く、雨量が少なく米作にも適さないばかりか、他の作物の農業生産力が低かったため、副業に依存せざるを得ない状態であった。主な副業に綿打・小倉織(諏訪小倉)などの綿業がありました。
 室町時代の末ごろから棉の栽培とともに綿織が盛んになった。戦国時代・16世紀前半、河内・和泉・摂津(大阪周辺)三河・伊勢(名古屋周辺)で木綿栽培の産地化が進む。そのころ,庶民の一般的な衣服は麻であったが,綿織の普及が広がるにつれて,綿を衣服として使用することが多くなった。安土桃山時代・16世紀中頃になると、大阪で実綿(種がついたままの綿)・繰綿(種を取った綿)・織物関係の問屋が出現して分業かが始まる。しかし,綿の庶民衣料としての本格化は江戸時代に入ってからのことである。
 諏訪でも多少の栽培があったが、隣の甲州の北巨摩郡の逸見(へみ)筋に多く、諏訪の人々は、農閑期には綿打(わたうち)の賃稼ぎに出掛けた。綿打とは綿打弓(弓形で弦には、牛の筋か鯨のひげを用いる)で繰綿をはじき打って、わたの不純物を除きながら柔らかくする作業で、もとでいらず冬稼ぎであった。
 17世紀前半 綿問屋の伊勢商人が江戸・大伝馬町へ進出するようになると、庶民の衣服は、麻から木綿に変わるほど出まわるようになった。17世紀中頃 綿問屋が繰綿を江戸や北国筋に輸送するようになると綿製品の生産地が各地に出現するようになる。こうして商人が物流の担い手になると、生産の分業化が進み、綿布は反物として全国に流通し始めるようになった。17世紀末頃には、東北地方でも大阪から江戸に送られた繰綿を、商人を仲介にして、糸・布等に加工する生産に携わるようになった。18世紀になると、江戸や東北では、関西地方の綿古着の大消費地になっていた。
 諏訪でも、元文・寛保(1,740頃)には、甲州から繰綿を仕入れて、居ながら綿打する人が多くなり、そこからよりこを作り、糸を紡ぎ、自家用衣料を作るだけでなく、現金収入を求めてより質のよい製品の生産に励むようになった。繰綿・製品を斡旋する問屋もでき、それにあわせて労力を広く集める専業綿織業者の工場もできるようになった。その綿織は諏訪小倉とよばれ、帯地・袴地・羽織地・足袋裏などが作られた。殊に袴地は諏訪平(すわひら)と呼ばれ、江戸表や京大阪にも流行った時期もあり小倉織は藩の収入源ともなった。
 棉花生産も1,688~1,703年(元禄)頃には、畿内から瀬戸内地方・東海地方へ広く普及した。棉作は有利な商品作物として、ことに摂津・河内・尾張・三河で盛んになり、幕末のころには、全国生産のうち約30%を産したという。  これらの製品は実綿・繰綿・綿布などの商品となって大坂に集荷され,商人の手をへて全国の市場に販売された。繰綿は江戸時代の重要商品で、正徳4(1714)年には、大阪から他地方へ移出された物資15品目中の7位で、その扱い高は銀4,299貫の金額になっていた。棉作の普及とともに,綿織も農閑期の商品生産として広く行われて綿織生産拡大の基盤となっていった。これを背景として前述のように麻から木綿へと庶民衣料の変革がひきおこされた。佐藤信淵の『経済要録』(1,827年)のなかで綿織物について〈綿布は河内をもつて上品とし,畿内諸地及び豊前小倉・伊勢松坂等古来高名あり,其他武州青梅・川越・埴生・八王子・下総結城・眞岡及び三河・尾張・芸州・阿州等,皆夥しく白木綿を出す,旦つ近来下総八日市場・上州桐生等より,聖多黙(さんとめ)を始として種々の綿布を夥しく産出するを以て土地富貴し,人民頗る蕃息(はんそく)せり,且又薩摩木綿と称するものあり,甚だ精好にして世人これを珍重せり,然れども比れ亦,琉球製にして,糸及び染法共に皇国の物と異なり,開物に志ある者は,宜しく此法を学で織出すべし〉と記している。これは江戸時代後期の綿織産地である。次に生産形態をみると,当初はいざり機であったが,生産性の高い高機が,後期に入ると専業綿織業者に採用されるようになった。しかし本来,綿織業は農閑余業的農家の生産を基礎としていたから,自給的生産から商品生産へと変わっても小規模経営のままであった。その殆どが、生計を補完する経営で,市場と物流を握る商人の支配下に置かれていった。幕末ごろには,従来の小商品生産段階から発展してマニュファクチュアと呼ばれる生産の形態をとる機業が,尾西・泉南・足利・桐生などで部分的に現れてきた。安政の通商条約以降,外国から安価で品質の一定した機械製綿糸が導入されるに従って国内産の手紡績(てぼうせき)は衰退し,棉作農家は打撃を受けた。明治20(1,887)年ごろには機械紡績の勃興とともに原料綿は,外国に依存し,国内の綿作農家は姿を消した。
 横浜開港以来の生糸業興隆に伴い、それに転業するものが多くなった。諏訪の小倉業も文政の頃から急成長したが、天保13(1,842)年頃を境にして生糸の時代へと変わっていった。

9)養蚕と生糸

 蚕は紀元前から生糸を吐き出す昆虫として飼われていた。我国には中国からの渡来人により大化の改新の頃もたらされた、関西から関東へと、さらに平安時代には全国に普及したものとみられる。
 自給用の衣料生産として養蚕は古くから行われていた。明和年間(1,764~1,771年)になると生糸の商品生産が始まる。 高島蕃は国産を奨励するため、文政7(1,824)年、桑苗の無償無制限給付の廻状を出した。これによって、天保年間(1,830~1,843年)には、養蚕・糸とりが農家に広く普及した。
 副業の発達により原料である繭が地元で得られたことは、大きな利点であった。また、文化文政の頃には山梨県から繭を買入れたという記録があるなどすでに他からの入手ルートもあった。
 続いて、「燃料である薪が手に入りやすかったこと」「動力として水車が利用できたこと」もあげることができる。交通が不便であった時代、これはかなり重要なことで、工業原料が乏しい日本では、その殆どを輸入に頼るが、その海外からの手当て、船積みと書類作成、国内輸送等の手間が省けた経済効果は大きい。一般的に、四方を山に囲まれた長野県は工業の発展には不利である。しかし、製糸業のように、加工しやすい原材料が近くにあるので、逆に有利になる。
 もう一つの大きな理由は、諏訪が江戸期、重要な物流拠点であった事。古くから諏訪は、中仙道、甲州街道など、つねに上方と江戸を結ぶ街道交通の要衝にあった。この東西を結ぶ幹線道路によって、上方や江戸方面と生糸や綿製品の取り引きをすることができた。
 京都方面へ販売する生糸を一般に登せ糸というが、享和年間(1,801~1,803年)頃には、西陣に需要が増えて、この登せ糸の販路が拡大した。安政6(1,859)年以後の横浜開港に神奈川からいち早く生糸の輸出をすることができたのは、このような生糸の販路が早くにできていたことが挙げられる。この時の生糸の相場の急騰が、さらなる養蚕、製糸の増産を促し、明治以降の発展につながった。以上の他、労働力を集め易かったこと、郡民が好奇心旺盛で進取の気性に富み、世界の動きに敏感であったことなどもあげられ、様々な理由が重なって、諏訪の製糸業は発達していくことになった。
 養蚕、製糸は、耕地に恵まれない小坂村(岡谷市)・花岡村で早く、それが次第に広がった。製糸工場も立ち上がり、慶応2(1,866)年には、上諏訪の問屋に糸会所もできた。そのころの郡内1ケ年の生産量は2,600余貫、そのうち最大の200余貫を商ったのが友之町(下諏訪町)の又四郎であった。彼は家屋敷も名請地もない人であった。
 このころの製糸器械はいわゆる上州坐繰機で、坐繰(ざぐり)製糸といい1人が座って糸を繰る方法が主流であった。幕末から明治にかけて諏訪地方に広く普及したものだった。坐繰機の普及にともない、ごくわずかではあるものの、マニュファクチュアの発生が見られるようになった。明治初期には、3~5人という小規模な坐繰りの家内工業が行われており、近隣の部落からも取子を雇うようになった。文政3 この頃、インドからの天竺糸や良質の唐糸が入ってくるようになり、同じ副業であった綿業は衰退してきました。綿業に携わっていた人々の中には、輸出によってその市場が拡大された製糸業へと転じる人もいた。
  幕末には群馬・福島地方で生糸が多く産出された。長野の諏訪湖でも養蚕はおこなわれ、横浜開港(1,859年)にともない横浜に生糸を出荷している。                    幕府・藩の財政建て直しとか、明治政府の殖産興業の奨励の意図もあったが農民の自立ということも大きい。米・麦中心の自給・自足経済から、酒、煙草、塩などが専売制になり現金がないと満足な生活が営めなくなる貨幣経済に農民が巻き込まれてきた。養蚕は老若男女の家内労働で現金を稼げる副業として畑を桑畑に変える人が増えてきた。蚕の種は江戸時代には信州(長野)は上州(群馬)を抜いていた、輸出もヨーロッパにしていた。明治に入ると養蚕業は信州全域に普及し、桑園面積は明治18年1万、23年2万、41年4万、昭和5年には8万町歩に達した。明治34年には群馬、明治41年には福島をこえ日本一になった。繭の生産は明治16年に群馬の2倍、福島の3倍にもなった。
 明治末期には諏訪湖近くから山岳地方にまで養蚕は普及し、我国での生糸生産は、昭和5(1,930)年には40万トンと史上最高になった。現在は1万トン、30万農家が3,000農家に激減した。現在は中国が世界の7割のシェア、日本は輸入国に転じた。(蚕の卵は食物の種子に似ている、そのため蚕種とも呼ばれる。それを孵化させ桑畑で栽培した桑の葉を摘んで餌をやる。やがて繭を作る、1匹で桑の葉を25g、サラダボール1杯分を食べ、吐き出す糸は1,500mもある。繭の中の蚕は蛹(さなぎ)になってから湯につけて蚕を殺し糸を巻き取る。一部の蚕は繭から成虫に孵化するのを待ち卵を取る。)

10)寒天

 寒天は天草・おごなどの紅藻類に属する海藻の煮凝り(いわゆるトコロテン)を凍結脱水し、不純物を除き乾燥したもので、およそ350余年の歴史をもち、日本で初めて発明された食品である。
 しかし、トコロテンを食料として用いた歴史はさらに古く、平安時代に中国大陸から伝えられた、当時の宮廷や高貴な人々の贅沢な食品であった。 このトコロテンから寒天とする手法を発見したのは、徳川時代に伏見で本陣を営んでいた美濃屋太郎左衛門といわる。正保4(1647)年冬、参勤交代の途上宿泊した島津公をもてなす為に作ったトコロテン料理の残りを、戸外に捨てたところ厳冬であったため数日後に白状に変化していた。それに興味をもち、冬の夜の寒さと、日中の日ざしに交互にさらされ、自然乾燥してできたのでは、と考え、これをヒントに透明な寒天を開発した。しかし当時はまだ「寒天」の名はなく「ところてんの干物」と呼ばれていた。この製造に取り組み、後に「トコロテンの干物」と名付けて販売を始めたのが起こりといわる。そして承応3(1654)年、高僧 隠元が試食し、「仏家の食用として、清浄無垢しかも美味、これに勝るものなし」と賞賛して、寒中に作られるから「寒天」と命名したと言われている。
 明和年間(1764~1771)に、大阪商人・宮田半兵衛が、伏見の寒天製造法を習得し、郷里の摂津・城山で工業化に成功した。その後しばらく、上方の名物として「寒天」は、関西地区で盛んに作られる様になった。そして天保年間(1830~1843)、冬の間だけ寒天作りを手伝う「天屋衆」として、諏訪地方から出稼ぎに来ていた穴山村(茅野市)の小林条左衛門(くめざえもん)が、地元でも日本一の寒天を作りたいと、故郷の諏訪・玉川村へ製法を持ち帰り、さっそく次の年から、地元で寒天作りに励んだ。日中は晴れても日が短く、夜間冷え込む信州の気候は、寒天作りにうってつけ。また、雪や雨が少なく水がきれいな諏訪地方は、寒天作りに最高の舞台であった。こうして、諏訪地方の寒天作りは農家の冬の間の副業として定着し、日本一の寒天が作られるようになった。
 それ以来150年たった今も、角寒天のほとんどが諏訪地方(茅野の坂室新田村)で生産されている。諏訪では天保年間より農家の副業として発展した。茅野市を中心とした地域で製造される毎年12月中旬から翌年の2月下旬頃まで製造される期間限定の特産品で、夜間-5度~-8度に下がり、日中は+5度から10度で、晴天の日が多く日照時間が短いから適度に融解される、雪や雨が少ないからよく乾燥され、豊富で良質な井戸水により不純物のない寒天ができた。

11)諏訪鋸   
          
 鋸の製造は、江戸時代、諏訪、上田、小諸などで盛んに行われたが、文化2(1805)年、諏訪高島藩の招きにより、江戸で有名な鋸鍛冶師、藤井甚九郎が諏訪に移住して藩御用の鋸製造に従事するようになると、多くの弟子が山浦地方に集まり生業にすると、諏訪地方はたちまち信州を代表する鋸産地となった。甚九朗はわざの研鑽や弟子の養成にきわめて熱心で、修行が終わり鋸鍛冶を開業する弟子には「甚」か「九」の字を与えて指導支援をした。それで、多くの門人が独立開業して互いに品質や技術を競い合い、産額が増えると、鋸商が全国に販路を広げ、諏訪地方は新潟県の三条市、兵庫県の三木市と並ぶ鋸産地に成長し、全国に質のよい「信州鋸」の存在が知られるようになった。明治前半には、諏訪地方の鋸業者が580余軒にのぼったと伝えられます。明治初期以来続く北海道開拓に、最もよく使われたのが、諏訪鋸でもあった。
 鍛造に適した八ヶ岳山麓の低温で、鋸を一定の温度で冷やすのによかったため、諏訪鋸は良質で、また鍛造に必要な松材の炭が周囲の山林から豊富に産出されたのも、この地に鋸製造が根づいた要因であった。
 手打ち製造をモットーに品質や技術を一途に追求する伝統を守ってきた信州鋸は、切れ味、耐久性、使い勝手、すべてにすぐれた逸品で、手打ちと機械を併用するようになった現在も、多様な現場で鋸を使うプロのめがねにかなう道具として高い評価を得ている。

12)氷餅(こおりもち)

 
氷餅とは、冬の寒い時に作るもので、朝晩の冷え込みが厳しく、日中は晴れて乾燥する諏訪地方独特の気候の下、凍結と解凍を何日も繰り返して徐々に乾燥させて干し上げて作るもので、寒天、凍り豆腐と並ぶ諏訪地方の厳冬期の特産品。
 江戸時代の氷餅は、高島藩の藩士らによって保存食、携帯食として作られていたが、蕃の独占事業になり、城の本丸に製造所があり、徳川幕府への献上品され、他藩主の贈答品になった。また家臣に下賜されることもあった。そのころは1年に10俵から15俵の米を消費する程度であった。
 農家では、戦前、六月の農繁期に、冬作っていた氷餅を凾(かん)から取り出し、茶碗に入れて熱湯を注ぎ込むだけで、とてもおいしい、猫の手も借りたいくらい忙しい時の休息には、簡単にでき、しかも栄養のあるものとして、どこの家庭でも大寒を中心に餅をついて作って保存食としておく。
 今では、氷餅を細かく砕くとキラキラ光る雪粒のように見えることから、和菓子店では菓子の表面にまぶす装飾材として使われることが多い。
 明治以降、農家にも生産は普及したが、食生活の変化などに伴い、今では数軒の業者が主に和菓子の材料向けに生産しているだけ。ただ、自家消費のために氷餅を作る家庭は今も少なくない。氷餅を砕いて器に入れてお湯を注ぎ、砂糖を加えるなどして離乳食や病人食、子供のおやつにする。

 車山高原レア・メモリー   諏訪の歴史散歩

車山創生記 | 八島湿原生成 | 八島遺跡群 |八島遺跡と分水界| 縄文のヒスイ | 縄文時代総説 | 縄文時代の地域的環境 | 縄文草創期 | 縄文早期 | 縄文前期 | 縄文中期 | 縄文時代の民俗学的研究 | 縄文後期 | 縄文晩期 | 弥生時代総説 | 倭国大乱 | 箕子朝鮮 | 扶余史 | 中国からの避難民 | 遼東情勢 | 衛氏朝鮮 | 長江文明 | 黄河文明 | 臨潼姜寨遺跡 | 半坡遺址 | 大汶口文化 | 山東龍山文化 | 中原龍山文化 | 朝鮮新石器時代 | 旧御射山物語 | 諏訪の字源と語源 | 諏訪の古墳群 | 中山道と諏訪の江戸時代 | 阿倍比羅夫と旧東山道 | 大化以降の諏訪の郷村 | 長野県の積石塚古墳 | 諏訪郡の御牧 | 古代塩原之牧と山鹿牧 | 蕨手太刀と諏訪武士 | 信濃武士誕生史  | 佐久武士誕生史 | 諏訪武士誕生史 | 諏訪家と武家の棟梁源氏との関係 | 中先代の乱と諏訪一族 | 室町・戦国の諏訪氏 | 佐久・伴野氏 | 佐久・大井氏盛衰記 |北信の雄・村上氏 | 鎌倉幕府滅亡から南北朝時代の信濃武士 | 村上信貞の時代 | 大塔合戦(信濃国一揆) | 小笠原政康、信濃国を制覇す! | 信濃戦国時代前期 | 信濃戦国時代後期 | 真田幸隆と武田信玄 | 真田昌幸の生涯 |戦国大名小笠原氏の没落!| | 諏訪氏と武田氏 | 諏訪家再興 | 諏訪湖・高島城 | 高島藩お家騒動 | 江戸期の諏訪民俗史 | 江戸期の北山村 | 坂本 養川汐 | 諏訪と浜松を結ぶ中馬と通船 | 富士川通船と中馬 | 大門街道湯川村 | 諏訪の民話 | 車山の天狗伝説 | 天狗党事件前夜 | 天狗党挙兵 | 天狗党中山道へ進軍 | 天狗党と高島藩 | 天狗党高遠藩領を行く | 天狗党と伊那街道諸宿 | 天狗党事変の結末 | 車山霧ヶ峰入会論 | 霧ヶ峰峠道 | 明治の霧ヶ峰 | 大正期の諏訪の農業 | 大戦前の諏訪の国民運動 | 製糸女工の賃金 | 山一林組争議 | 諏訪の製糸不況 | 片倉工業史 | 近世近代の霧ヶ峰 | 霧ヶ峰のグライダー史 | 車山開発史