1) 東山道 東山道(とうさんどう、とうせんどう、あずまやまのみち)は、山陽道・山陰道・東海道・北陸道・南海道・西海道と並ぶ古代の官道、五畿七道の一つである。大化2年(646)正月、大和朝廷は改新の詔を公布し、中央集権の強化策の一つとして、その2条で「初めて天皇の都を整え、皇居に近い大和、山城、河内、摂津の畿内4カ国に、国司や郡司を置き、国境には関所、砦を設け、斥候や防人と駅馬、伝馬を置く」とし、中央と諸国の国府を結ぶ官道の整備が図られた。官道には、大・中・小の格付けがあり、当時枢要な九州大宰府に通じる山陽道が大路、東北蝦夷地への侵出通路の東山道と東海道が中路、北陸道・南海道・西海道・山陰道は小路であった。その東山道は近江より美濃・信濃・上野・下野に通じ、古代の初期から開設されていた 日光道中 千住より鉢石まで21次 奥州道中 白沢より白河まで10次 甲州道中 内藤新宿より下諏訪まで44次 中山道が一般には69次としているのは草津・大津を入れているからで、実際は共に東海道の宿駅。 街道名前の由来 一、東海道 ; 海端を通り候に付、海道と可申事。 二、中山道 ; 只今迄は仙の字書候得ども向後山之字書可申事。 三、奥州道中 ; 是は海端を通り不申候間、海道とは申間敷候。 四、日光道中 ; 右同断。 五、甲州道中 ; 日光道中同断。 右の通向後可相心得旨(正徳六)申(1,716)4月14日河内守殿より松平石見守、伊勢守江仰渡候。 日本橋→板橋→蕨→ 浦和→大宮→上尾→桶川→鴻巣→熊谷→深谷→本庄→新町→倉賀野→高崎→板鼻 →安中→松井田→坂本→軽井沢→沓掛→追分→小田井→岩村田→塩名田→八幡→望月→芦田→長久保 →和田→ 下諏訪→塩尻→洗馬→本山→贄川→奈良井→薮原→宮ノ越→福島→上松→須原→野尻→三留野→妻籠→馬籠→落→中津川→大井→大湫→細久手→御嵩→伏見→太田→鵜沼→加納→河渡→ 美江寺→赤坂→垂井→関ヶ原→今須→柏原→醒ヶ井→番場→鳥居本→三条大橋また、江戸から甲府を経て中山道の下諏訪宿と合流する街道として甲州道中が整備された。内藤新宿を第一宿に、甲府に通じた甲州街道も5街道の一つ、それが伸びて下諏訪宿で中仙道と交わった。
また家康の命日には、朝廷は日光東照宮に日光例幣使を遣わした。道筋は中山道を通り和田峠・碓氷峠を越えて日光に向かったが、帰りは江戸から東海道を使った。日光例幣使は、毎年京都から日光に参拝する勅使であるが、4月8日に下諏訪宿に泊まる。この一行は、賃料・宿料を払わないどころか、出掛けに草鞋銭を要求した。貧窮にあえぐ公卿の旅稼ぎであった。 文化6年(1,809)、9月23日に伊能忠敬は和田峠から上諏訪方面を測量し、同8年4月19日に三河から伊那を測量して諏訪に至り、甲州街道を測量しながら江戸に帰った。 文政3「1,820年、十返舎一九が甲府から諏訪に旅をし、さらに伊那の大出に向かった。 3)入会論争
。 一例として片倉山山論の事件がある。諏訪領民は神宮寺・宮田渡・上金子・中金子・福島・赤沼・飯島・高部・小町屋・安国寺・中河原・新井の12ケ村と高遠領の片倉・の2ケ村との長年の山論であった。当初は草木はさほど問題にならなかったが、諏訪領民の採取が頻繁になるにつれれ大問題となった。 元禄3(1690)年、真田伊豆守の家臣・久保田義太夫による伊那と諏訪の山野境界の高遠検地の際、双方とも長年の慣行というだけで、確たる証拠なく、片倉村側では「高島領12ケ村から毎年山手米を受け取り、入会場所は4ケ所だけである」と申し立てた。高島領12ケ村は「4ケ所以外に数ヶ所、入会地がある」と反論した。久保田義太夫は実地検分の結果「大海道(杖突海道)から北西は分杭から本沢まで絵図面通り入会、大海道から東南は沢水ないし小道上場通りよけまで、それから東作り道まで見通し、その間の北東の内入会」と、双方立ち会い境界確認して手打ちとなった。これにより双方の名主・長百姓が連署し、取替手形(元禄3年7月「差上申一札之事」)を交換した。この片倉山山論で、諏訪側12ケ村の総費用は143貫178文となり、翌年8月15日に遠近、村高などで各村割り当てが決まり、最高は高部村の75貫文、神宮寺村は15貫40文であった。同年諏訪側12ケ村は、それぞれ山手米を納めている。一方は、諏訪高部・福島の両村から山手米1石2斗5升3合と口米3升8合を受けている。 その他、他領との境界論争では、塩尻境界論争がある、70年も争い寛文5(1665)年に採決された。佐久境界論争では、蓼科山麓で慶安年間(1648から1652)から始まり、鉄砲を撃ちかける事件まで生じたが、延宝(1677)5年に裁許状が下りた。八ヶ岳論争は、甲州との国境問題で、寛永(1624~1644))年間から争い正保(1645)2年3月に裁許状が下された。但し、一応、裁許を下されたものの、依然ととして後々まで入会地闘争は続いた。 山野は人類が原初的に存続するための糧であったが、一切の生活資源であることは今日も変わりない。それが古代か中世へと文明の発展と共に利用価値が増すと同時に、地域々々の権力者の領有が進み、自由に採取できる環境が狭まれてきた。その一方、江戸時代、次第に開拓が進み農地が増え、その結果、文化の発展がすすむと城下町・宿場町・門前町の建設が促進され、その建材として日常の燃料、田畑の増大に伴う肥料としての苅敷(山野の草または樹木の茎葉を緑のまま田畑に敷きこむことをいうが、かつて地力維持の重要な手段であった。)、家畜の飼料などの需要が急速に増した。その上、初代藩主・頼水、2代・忠恒、3代・忠晴と新田開発が盛んになされた。結果、諏訪湖周辺のみならず、広大な八ヶ岳山麓一帯にも、多くの新田村が出現した。供給源の原野は開墾され、山野も乱獲が進み、荒廃していった。また中洲やも開拓され草地が減少した。慣習的に共同利用されていた(自村が権利をもつ山野)ではまかなえきれず、他村・他領の山野にまで侵さざるをえなくなった。 山手米(山野使用料)を納めて、境界線・採取物・採取道具・時期・順番・入山道等を細かく誓約させられて、地元村との入会権の確保がなされたが、それも需要の増大と伴に守りきれず、新たな紛争へとつながった。 高島藩領内の入会紛争は、藩の奉行所で扱われ裁許されたが、長引きがちで費用がかさむ上、奉行所まで幾度も出かけなければならず、その労力も大変であった。元禄のころになると仲裁人としてが現れ、内済で解決して扱い人共にの連署で誓約されるようにもなった。 だが隣接する高遠藩・伊那領・松本藩などの他領との入会紛争となると、江戸の評定所の裁定となり、江戸へ出掛けての訴訟のため農民の費用・労力の負担は大変なものであった。高遠藩との争いで、そのとき生じた借金の返済ができず神宮寺名主・与次右衛門は家屋敷を失っている。 4)諏訪湖辺新田開発 満水堀 頼水が諏訪に戻って最初に着手した1つに諏訪湖の開拓があった。水深の浅い諏訪湖は、少し水位を下げただけで、中筋方面にも、下筋方面にもたくさんの水田ができる。また湖面をさげることは、従来の水田の水害予防にもなる。頼水は高島城の水城としての要害を犠牲にしても、干拓を進めた。まず釜口の北側にもう一つの排水溝を作り、天竜川に2筋の湖水の出口を作った。これが元和元(1,615)年完成の満水堀である。 この時、釜口に島が残った。弁天社があったので、弁天島と名づけられた。これにより湖岸にたくさんの葦原の湿地ができた。盛り土をして水田とし、いままでの湿田が良田に変わった。 新堀 満水堀のお蔭でできた新田も、地形状、夏季の洪水時期になると水没の被害が続出した。さらに水位を下げようと、弁天島の中央を穿ち排水溝を増設した。天竜川への排水は3筋となった。弁天島は2つの島に割れた。北側を浜中島、南側を弁天島とした。このころには、高島城の天守閣の石垣に寄せていた諏訪湖の波も遠く退いて、辺りは広大な水田となっていた。水田が広がれば、洪水の被害も拡大した。平成の現代でも、水田あとに広がった市街地が、大雨が続くと冠水することは稀でない。 また、その当時、八ケ岳山麓の高原台地・山浦地方にも新田開拓が活発に進んでいた。そのためかっての広大な山林が消滅して、益々下流の諏訪湖畔の洪水の被害が広がった。被害をこうむる天竜14ケ村は、釜口の薮刈、川浚い、流水ゴミの始末に結束した働いた。天明・文化には大規模な天竜川浚い(さらい)の工事が行われた。 浜中島の撤去 文政14年、史上類のない大洪水が発生、大凶作となった。藩は有賀村の伊藤五六郎に来年中を条件に、浜中島の撤去を請け負わせた。時に、五六郎22歳。藩の許可を得て、長さ15m、幅3mの大船を作った。乞食その他の浮浪者を集めて、浜中島を崩した土を大船に乗せ、有賀村近くの湖畔の湿地を埋めた。そこに6町歩の田圃ができた。今日の中曽根の一部「五六郎田んぼ」と語りつがれている。延べ1万6千人と1年を要して天保元(1830)年12月に完成した。 この完成後も、水害は広がるばかりであった。新たに広がる湿地をみれば、人々はそこを埋め、新田を作り部落ができる。地形状の欠点はそのままであった。 弁天島撤去 弁天島は葛飾北斎が描く富士36景の1つ、名勝の地であり、その弁天社は家老・千野家の篤い信仰を受けていた。明治元年9月、藩主・忠誠は、14ケ村の弁天島撤去の願いを受けて、14ケ村請負で許可した。半月で完成した。 この結果、頼水の頃、527.2km2の流域があった諏訪湖の面積は、14.322km2しかなくなった。しかし短期の氾濫は終らない・・・・・ 5)八ヶ岳山麓新田開発 八ヶ岳の西斜面は中腹から緩やかで、南の釜無山系まで、広大な裾野を形成していて、その一帯を総称して「原山」と呼んでいた。「旧蹟年代記」には、「総名原山の地、大堺は嶽山(八ヶ岳)迄、南は高(立)場川迄、この川中に堺塚あり、原山地柳川の川中堺、西は宮川を堺、下は新井村赤田新田三本松迄、夫より上原村のより見通し、北は中道、槻木沢、東うけのと鬼場川堺」云々と記されている。 頼水は諏訪湖の新田開発と同時に、八ヶ岳山麓の干拓も始めている。当時、原村一帯は広い荒野であった。古くから諏訪神社上社の神野(こうや)として、諏訪明神の御狩場として神聖視され、御狩の神事(5/2)、御狩の神事(6/27)、御射山御狩の神事(7/2から)、御狩の神事(9月下旬)などがあり、3月には神使御頭祭(酉の祭)の御贄の鹿も原山神野で求められていた。古代より鍬を入れてはならないとされていた。また水源が少なく農耕に適さなかったことも事実であった。ただ採草だけは許されていたようであった。 それでも、鎌倉時代の承久元(1219)年の「諏訪十郷日記」によって、田沢・青柳など神野周辺に村ができ始めたことが知られる。室町時代の「諏訪大明神画詞」には、粟沢・神乃原・中沢(なかつさわ)などの村名が見られる。それでも御射山社周辺の神野は手付かずだった。 頼水は藩の重要政策の新田開発に、原山に目をつけ神野の開拓を命じた。慶長15(1610)年正月、遂に原山新田(中新田)が誕生した。青柳の金鶏金山の抗夫が、金山閉鎖後、生活の糧を得るために成功させた事業だった。 原山新田に与えた頼水自筆の定書(さだめがき)等が現存する。 慶長15年正月 原山新田の儀は四カ年の内つくりとり致すべく候事 役永く免許せしめ候事 3月6日付け定 地は四カ年荒野たるべきこと(4年間無税) 役免許のこと(お伝馬、川除け、道普請の課役免除) 走者一切停止のこと 方五十町の間草木わき郷の者にとらせまじきこと(薪、草などの採取地の保証) 次通り新町通るべく候、上道はきりふさぎ、人通らざるとうに仕るべきこと と、実に細やかな内容から、頼水の新田開発の意気込みが知れる。 この新田開発を実地に指導し援助したのが、弟・二ノ丸家老・頼雄であった。現在も、中新田の人々は、頼水・頼雄を氏神様として祀っている。 寛永8(1631)年、11月21日、山田新田(茅野市玉川)が藩から新田完成の認定を受けている。つづいて元和元(1615)年の八ッ手新田を始め、払沢・柏木・大久保・菖蒲沢・室内など、80余りの新田が成功している。慶長から寛永・正保・慶安(1648~1651)の頃迄である。 当時、肥料を自給するため、水田はその3倍、畑には2倍の草地が必要であった。採草地を開墾すれば、益々自給が困難になってきた。 原山に入会権を持つ村は、北山浦を始め宮川沿いの古村や、大熊・神宮寺・宮田渡・赤沼・神戸・飯島・上金子・下金子・福島など63ケ村に及んでいた。 原山草論の始めは、貞享5(1,688)年の立場川東広原の草場論で、立沢村が中新田の入会を排除しようとした。郡奉行の吟味で「先規の通り」と裁許されている。 中筋の田部・飯島・上金子・中金子・下金子・福島・新井の7ケ村は古来持山がなく、原山、富士見方面に入会をしていた。2代藩主・忠恒のころには、田作りのため早草刈を願い出ていた。結果、高部からうえの新井・粟沢から、木之間・から高森まで、御林の外はかまい無く刈り取りを許された。 それが正徳元(1711)年6月、郡奉行へ提出した口上書によれば、御射山神戸山居くね(屋敷林)は、前々から刈敷用に夏草を刈り取りしていたが、当春、急に制限された。それに中筋の者には御憐れみをもって茅野の御林刈敷を下されたが、これも茅野・金沢の内林として拒まれ、木之間の入会は、神戸村に限り、中筋の者には刈らせないといわれたと訴え出ている。この結末は不明だが、原山は広いが、多くの入会村が入り組み、文政・天保・と草論が絶えず、そのつどの訴願状や裁許状が残されている。さらに原山草論を複雑にしたのが、中筋の飯島・上金子・中金子の村々が、柏木・菖蒲沢・木船周辺に山畑・林畑・下田など開墾をし検地を受け、それぞれ津高も決められていた。享和3(1803)年、新開畑を狭めるとして、「新開畑潰し願い」が出されている。 6)坂本養川の汐(せぎ) 諏訪の新田開発の勢いは元禄のころに一時衰えた。これは開発できる土地がなくなったためではなく、当時、水利の技法がなく、自然の河川の流れに即していくしかなかった。水さえあれば、開田できる空閑地はまだまだあった。八ヶ岳山麓、柳川から立場川の広大な台地は、水利がなく草刈場として放置されていた。このとき新しい用水体系を工夫したのが天明年代の坂本養川(1736~1809)だった。養川は16歳で家督を継ぎ、23歳で名主になるが、18歳の頃から、近畿一帯を旅し、土地開発の実情を見聞し、その後江戸に出て21歳から8年ほどかけて関東7か国の詳細な開田計画を立てている。これは病を得て実現できなかった。 諏訪に戻った養川は、蓼科山から流れる豊富な水量の利用を考えた。滝の湯川や渋川の余り水や各所の出水を繰越汐(くりこしせぎ)の方法で、農業用水として八ヶ岳山麓に流すことだった。自然の川が、谷に沿って流れ下るのに対して、汐は等高線に沿うかのように、一部では谷を超えて、山肌を横に流していく、滝之湯堰や大河原堰など新しい用水路の開削によって農業用水を作り、水稲の収穫高を飛躍的に増大させようとした。この計画を安永4(1775)年12月、家老・(二之丸家)諏訪大助に願い出た。貞享 養川の一大水利事業計画は、高島藩の混乱期(二之丸騒動)でもあり、その当時の家老に人材を得ず、一方、藩主・6代忠厚は病弱で帰国することが少なく藩政をかえりみない最悪の状態の中で許可が得られない。養川は山浦地方の模型を作って、柳口の役所に説明に出向いたり、郡奉行・両角外太夫の実地見分を実現したりしたが、計画の採用に至らない。 そのうえ湯川や芹ケ沢の水元の村々で、自分の水利が侵されると、養川の暗殺計画まで図る者まで出現する。 蕃の騒動は、天明3(1,783)年、二之丸家断絶と蕃主・忠厚の隠居で結末を見た。高島蕃は多年の財政難の上に、この事件の失費と天明3、4年の大凶作で、流石の頑迷固陋な家老・(三之丸家・二之丸騒動の勝者)千野兵庫も養川の計画に期待するしかなかった。天明5年2月大見分、7月18日普請の開始、寛政12(1,800)年までに約350町歩の開田を成し遂げた。 養川の工夫は単純な用水路の開削だけでなく、渋川の流れに魚住まず、その水は稲作に適さない、それで幾度かの繰越汐をへて他の水と混ぜることにより水質の改良を行っている。 養川は享和元(1,801)年、小鷹匠の藩士となり16俵2人扶持と抜高(免祖地)15石を与えられる。大正4年11月の御大典に、従5位を追贈される。歴代高島蕃・藩主と同位である。 養川の汐は山浦地方に膨大な水田を生み、その生産の恩恵は後世に及ぶが、もともとあった旱魃時の水争いはより頻繁になり、農民同士の血の抗争はより激しくより拡大した。これは、諏訪湖辺の開拓につうじるものがあった。時代の限界としか言えない。ただ頼水・養川の功績は大きい 7)農業と余業 諏訪は固い地盤の上にあり、意外にも地震の損害は、赤沼(諏訪湖の南側、四賀の平坦地にあった村。ここにはカッパが住むと言われていた茅葉「ちば」ケ池があったと言い伝えられているように、渋水で赤く濁った湿地があちこちにあったので、赤沼と呼ぶようになった。)・島崎に例外的に記録される。火災も城下町に発生してるが、それほど多くはない。諏訪の災害の最たるものは、河川の洪水と湖水の氾濫であった。四囲の名だたる山岳から流れる各所の河川は、諏訪湖に集まるが流出口は天竜川のみ、少しの長雨でも水害が発生する。まして多年の治水工事よる大規模な新田開発の結果が、水害の規模を益々拡大するという皮肉を生んだ。 また江戸時代全国的に多発した冷害の被害は、高冷地のため諏訪郡は頻度も程度もはげしかった。蕃は随分郡民思いの対策を講じている。その結果が、江戸時代一揆の発生がなかったという稀有な蕃となりえたのだろう。蕃の施策は、新田の冠水が頻繁な村には、定納を求めず、年々、検見してこれを定めた。小和田村(諏訪市役所の北側・大手辺り)にいたっては村高がなかった。飢饉のときは、粥の炊き出し、富裕者の翌年の苗の支給を求めた。 8)綿から生糸へ 諏訪の家内工業は、早くから発達をみた。その大きな理由として、高冷地のために気温が低く、雨量が少なく米作にも適さないばかりか、他の作物の農業生産力が低かったため、副業に依存せざるを得ない状態であった。主な副業に綿打・小倉織(諏訪小倉)などの綿業がありました。 室町時代の末ごろから棉の栽培とともに綿織が盛んになった。戦国時代・16世紀前半、河内・和泉・摂津(大阪周辺)三河・伊勢(名古屋周辺)で木綿栽培の産地化が進む。そのころ,庶民の一般的な衣服は麻であったが,綿織の普及が広がるにつれて,綿を衣服として使用することが多くなった。安土桃山時代・16世紀中頃になると、大阪で実綿(種がついたままの綿)・繰綿(種を取った綿)・織物関係の問屋が出現して分業かが始まる。しかし,綿の庶民衣料としての本格化は江戸時代に入ってからのことである。 諏訪でも多少の栽培があったが、隣の甲州の北巨摩郡の逸見(へみ)筋に多く、諏訪の人々は、農閑期には綿打(わたうち)の賃稼ぎに出掛けた。綿打とは綿打弓(弓形で弦には、牛の筋か鯨のひげを用いる)で繰綿をはじき打って、わたの不純物を除きながら柔らかくする作業で、もとでいらず冬稼ぎであった。 17世紀前半 綿問屋の伊勢商人が江戸・大伝馬町へ進出するようになると、庶民の衣服は、麻から木綿に変わるほど出まわるようになった。17世紀中頃 綿問屋が繰綿を江戸や北国筋に輸送するようになると綿製品の生産地が各地に出現するようになる。こうして商人が物流の担い手になると、生産の分業化が進み、綿布は反物として全国に流通し始めるようになった。17世紀末頃には、東北地方でも大阪から江戸に送られた繰綿を、商人を仲介にして、糸・布等に加工する生産に携わるようになった。18世紀になると、江戸や東北では、関西地方の綿古着の大消費地になっていた。 諏訪でも、元文・寛保(1,740頃)には、甲州から繰綿を仕入れて、居ながら綿打する人が多くなり、そこからよりこを作り、糸を紡ぎ、自家用衣料を作るだけでなく、現金収入を求めてより質のよい製品の生産に励むようになった。繰綿・製品を斡旋する問屋もでき、それにあわせて労力を広く集める専業綿織業者の工場もできるようになった。その綿織は諏訪小倉とよばれ、帯地・袴地・羽織地・足袋裏などが作られた。殊に袴地は諏訪平(すわひら)と呼ばれ、江戸表や京大阪にも流行った時期もあり小倉織は藩の収入源ともなった。 棉花生産も1,688~1,703年(元禄)頃には、畿内から瀬戸内地方・東海地方へ広く普及した。棉作は有利な商品作物として、ことに摂津・河内・尾張・三河で盛んになり、幕末のころには、全国生産のうち約30%を産したという。 これらの製品は実綿・繰綿・綿布などの商品となって大坂に集荷され,商人の手をへて全国の市場に販売された。繰綿は江戸時代の重要商品で、正徳4(1714)年には、大阪から他地方へ移出された物資15品目中の7位で、その扱い高は銀4,299貫の金額になっていた。棉作の普及とともに,綿織も農閑期の商品生産として広く行われて綿織生産拡大の基盤となっていった。これを背景として前述のように麻から木綿へと庶民衣料の変革がひきおこされた。佐藤信淵の『経済要録』(1,827年)のなかで綿織物について〈綿布は河内をもつて上品とし,畿内諸地及び豊前小倉・伊勢松坂等古来高名あり,其他武州青梅・川越・埴生・八王子・下総結城・眞岡及び三河・尾張・芸州・阿州等,皆夥しく白木綿を出す,旦つ近来下総八日市場・上州桐生等より,聖多黙(さんとめ)を始として種々の綿布を夥しく産出するを以て土地富貴し,人民頗る蕃息(はんそく)せり,且又薩摩木綿と称するものあり,甚だ精好にして世人これを珍重せり,然れども比れ亦,琉球製にして,糸及び染法共に皇国の物と異なり,開物に志ある者は,宜しく此法を学で織出すべし〉と記している。これは江戸時代後期の綿織産地である。次に生産形態をみると,当初はいざり機であったが,生産性の高い高機が,後期に入ると専業綿織業者に採用されるようになった。しかし本来,綿織業は農閑余業的農家の生産を基礎としていたから,自給的生産から商品生産へと変わっても小規模経営のままであった。その殆どが、生計を補完する経営で,市場と物流を握る商人の支配下に置かれていった。幕末ごろには,従来の小商品生産段階から発展してマニュファクチュアと呼ばれる生産の形態をとる機業が,尾西・泉南・足利・桐生などで部分的に現れてきた。安政の通商条約以降,外国から安価で品質の一定した機械製綿糸が導入されるに従って国内産の手紡績(てぼうせき)は衰退し,棉作農家は打撃を受けた。明治20(1,887)年ごろには機械紡績の勃興とともに原料綿は,外国に依存し,国内の綿作農家は姿を消した。 横浜開港以来の生糸業興隆に伴い、それに転業するものが多くなった。諏訪の小倉業も文政の頃から急成長したが、天保13(1,842)年頃を境にして生糸の時代へと変わっていった。 9)養蚕と生糸 蚕は紀元前から生糸を吐き出す昆虫として飼われていた。我国には中国からの渡来人により大化の改新の頃もたらされた、関西から関東へと、さらに平安時代には全国に普及したものとみられる。 自給用の衣料生産として養蚕は古くから行われていた。明和年間(1,764~1,771年)になると生糸の商品生産が始まる。 高島蕃は国産を奨励するため、文政7(1,824)年、桑苗の無償無制限給付の廻状を出した。これによって、天保年間(1,830~1,843年)には、養蚕・糸とりが農家に広く普及した。 副業の発達により原料である繭が地元で得られたことは、大きな利点であった。また、文化文政の頃には山梨県から繭を買入れたという記録があるなどすでに他からの入手ルートもあった。 続いて、「燃料である薪が手に入りやすかったこと」「動力として水車が利用できたこと」もあげることができる。交通が不便であった時代、これはかなり重要なことで、工業原料が乏しい日本では、その殆どを輸入に頼るが、その海外からの手当て、船積みと書類作成、国内輸送等の手間が省けた経済効果は大きい。一般的に、四方を山に囲まれた長野県は工業の発展には不利である。しかし、製糸業のように、加工しやすい原材料が近くにあるので、逆に有利になる。 もう一つの大きな理由は、諏訪が江戸期、重要な物流拠点であった事。古くから諏訪は、中仙道、甲州街道など、つねに上方と江戸を結ぶ街道交通の要衝にあった。この東西を結ぶ幹線道路によって、上方や江戸方面と生糸や綿製品の取り引きをすることができた。 京都方面へ販売する生糸を一般に登せ糸というが、享和年間(1,801~1,803年)頃には、西陣に需要が増えて、この登せ糸の販路が拡大した。安政6(1,859)年以後の横浜開港に神奈川からいち早く生糸の輸出をすることができたのは、このような生糸の販路が早くにできていたことが挙げられる。この時の生糸の相場の急騰が、さらなる養蚕、製糸の増産を促し、明治以降の発展につながった。以上の他、労働力を集め易かったこと、郡民が好奇心旺盛で進取の気性に富み、世界の動きに敏感であったことなどもあげられ、様々な理由が重なって、諏訪の製糸業は発達していくことになった。 養蚕、製糸は、耕地に恵まれない小坂村(岡谷市)・花岡村で早く、それが次第に広がった。製糸工場も立ち上がり、慶応2(1,866)年には、上諏訪の問屋に糸会所もできた。そのころの郡内1ケ年の生産量は2,600余貫、そのうち最大の200余貫を商ったのが友之町(下諏訪町)の又四郎であった。彼は家屋敷も名請地もない人であった。 このころの製糸器械はいわゆる上州坐繰機で、坐繰(ざぐり)製糸といい1人が座って糸を繰る方法が主流であった。幕末から明治にかけて諏訪地方に広く普及したものだった。坐繰機の普及にともない、ごくわずかではあるものの、マニュファクチュアの発生が見られるようになった。明治初期には、3~5人という小規模な坐繰りの家内工業が行われており、近隣の部落からも取子を雇うようになった。文政3 この頃、インドからの天竺糸や良質の唐糸が入ってくるようになり、同じ副業であった綿業は衰退してきました。綿業に携わっていた人々の中には、輸出によってその市場が拡大された製糸業へと転じる人もいた。 幕末には群馬・福島地方で生糸が多く産出された。長野の諏訪湖でも養蚕はおこなわれ、横浜開港(1,859年)にともない横浜に生糸を出荷している。 幕府・藩の財政建て直しとか、明治政府の殖産興業の奨励の意図もあったが農民の自立ということも大きい。米・麦中心の自給・自足経済から、酒、煙草、塩などが専売制になり現金がないと満足な生活が営めなくなる貨幣経済に農民が巻き込まれてきた。養蚕は老若男女の家内労働で現金を稼げる副業として畑を桑畑に変える人が増えてきた。蚕の種は江戸時代には信州(長野)は上州(群馬)を抜いていた、輸出もヨーロッパにしていた。明治に入ると養蚕業は信州全域に普及し、桑園面積は明治18年1万、23年2万、41年4万、昭和5年には8万町歩に達した。明治34年には群馬、明治41年には福島をこえ日本一になった。繭の生産は明治16年に群馬の2倍、福島の3倍にもなった。 明治末期には諏訪湖近くから山岳地方にまで養蚕は普及し、我国での生糸生産は、昭和5(1,930)年には40万トンと史上最高になった。現在は1万トン、30万農家が3,000農家に激減した。現在は中国が世界の7割のシェア、日本は輸入国に転じた。(蚕の卵は食物の種子に似ている、そのため蚕種とも呼ばれる。それを孵化させ桑畑で栽培した桑の葉を摘んで餌をやる。やがて繭を作る、1匹で桑の葉を25g、サラダボール1杯分を食べ、吐き出す糸は1,500mもある。繭の中の蚕は蛹(さなぎ)になってから湯につけて蚕を殺し糸を巻き取る。一部の蚕は繭から成虫に孵化するのを待ち卵を取る。) 10)寒天 寒天は天草・おごなどの紅藻類に属する海藻の煮凝り(いわゆるトコロテン)を凍結脱水し、不純物を除き乾燥したもので、およそ350余年の歴史をもち、日本で初めて発明された食品である。 しかし、トコロテンを食料として用いた歴史はさらに古く、平安時代に中国大陸から伝えられた、当時の宮廷や高貴な人々の贅沢な食品であった。 このトコロテンから寒天とする手法を発見したのは、徳川時代に伏見で本陣を営んでいた美濃屋太郎左衛門といわる。正保4(1647)年冬、参勤交代の途上宿泊した島津公をもてなす為に作ったトコロテン料理の残りを、戸外に捨てたところ厳冬であったため数日後に白状に変化していた。それに興味をもち、冬の夜の寒さと、日中の日ざしに交互にさらされ、自然乾燥してできたのでは、と考え、これをヒントに透明な寒天を開発した。しかし当時はまだ「寒天」の名はなく「ところてんの干物」と呼ばれていた。この製造に取り組み、後に「トコロテンの干物」と名付けて販売を始めたのが起こりといわる。そして承応3(1654)年、高僧 隠元が試食し、「仏家の食用として、清浄無垢しかも美味、これに勝るものなし」と賞賛して、寒中に作られるから「寒天」と命名したと言われている。 明和年間(1764~1771)に、大阪商人・宮田半兵衛が、伏見の寒天製造法を習得し、郷里の摂津・城山で工業化に成功した。その後しばらく、上方の名物として「寒天」は、関西地区で盛んに作られる様になった。そして天保年間(1830~1843)、冬の間だけ寒天作りを手伝う「天屋衆」として、諏訪地方から出稼ぎに来ていた穴山村(茅野市)の小林条左衛門(くめざえもん)が、地元でも日本一の寒天を作りたいと、故郷の諏訪・玉川村へ製法を持ち帰り、さっそく次の年から、地元で寒天作りに励んだ。日中は晴れても日が短く、夜間冷え込む信州の気候は、寒天作りにうってつけ。また、雪や雨が少なく水がきれいな諏訪地方は、寒天作りに最高の舞台であった。こうして、諏訪地方の寒天作りは農家の冬の間の副業として定着し、日本一の寒天が作られるようになった。 それ以来150年たった今も、角寒天のほとんどが諏訪地方(茅野の坂室新田村)で生産されている。諏訪では天保年間より農家の副業として発展した。茅野市を中心とした地域で製造される毎年12月中旬から翌年の2月下旬頃まで製造される期間限定の特産品で、夜間-5度~-8度に下がり、日中は+5度から10度で、晴天の日が多く日照時間が短いから適度に融解される、雪や雨が少ないからよく乾燥され、豊富で良質な井戸水により不純物のない寒天ができた。 11)諏訪鋸 鋸の製造は、江戸時代、諏訪、上田、小諸などで盛んに行われたが、文化2(1805)年、諏訪高島藩の招きにより、江戸で有名な鋸鍛冶師、藤井甚九郎が諏訪に移住して藩御用の鋸製造に従事するようになると、多くの弟子が山浦地方に集まり生業にすると、諏訪地方はたちまち信州を代表する鋸産地となった。甚九朗はわざの研鑽や弟子の養成にきわめて熱心で、修行が終わり鋸鍛冶を開業する弟子には「甚」か「九」の字を与えて指導支援をした。それで、多くの門人が独立開業して互いに品質や技術を競い合い、産額が増えると、鋸商が全国に販路を広げ、諏訪地方は新潟県の三条市、兵庫県の三木市と並ぶ鋸産地に成長し、全国に質のよい「信州鋸」の存在が知られるようになった。明治前半には、諏訪地方の鋸業者が580余軒にのぼったと伝えられます。明治初期以来続く北海道開拓に、最もよく使われたのが、諏訪鋸でもあった。 鍛造に適した八ヶ岳山麓の低温で、鋸を一定の温度で冷やすのによかったため、諏訪鋸は良質で、また鍛造に必要な松材の炭が周囲の山林から豊富に産出されたのも、この地に鋸製造が根づいた要因であった。 手打ち製造をモットーに品質や技術を一途に追求する伝統を守ってきた信州鋸は、切れ味、耐久性、使い勝手、すべてにすぐれた逸品で、手打ちと機械を併用するようになった現在も、多様な現場で鋸を使うプロのめがねにかなう道具として高い評価を得ている。 12)氷餅(こおりもち) 氷餅とは、冬の寒い時に作るもので、朝晩の冷え込みが厳しく、日中は晴れて乾燥する諏訪地方独特の気候の下、凍結と解凍を何日も繰り返して徐々に乾燥させて干し上げて作るもので、寒天、凍り豆腐と並ぶ諏訪地方の厳冬期の特産品。 江戸時代の氷餅は、高島藩の藩士らによって保存食、携帯食として作られていたが、蕃の独占事業になり、城の本丸に製造所があり、徳川幕府への献上品され、他藩主の贈答品になった。また家臣に下賜されることもあった。そのころは1年に10俵から15俵の米を消費する程度であった。 農家では、戦前、六月の農繁期に、冬作っていた氷餅を凾(かん)から取り出し、茶碗に入れて熱湯を注ぎ込むだけで、とてもおいしい、猫の手も借りたいくらい忙しい時の休息には、簡単にでき、しかも栄養のあるものとして、どこの家庭でも大寒を中心に餅をついて作って保存食としておく。 今では、氷餅を細かく砕くとキラキラ光る雪粒のように見えることから、和菓子店では菓子の表面にまぶす装飾材として使われることが多い。 明治以降、農家にも生産は普及したが、食生活の変化などに伴い、今では数軒の業者が主に和菓子の材料向けに生産しているだけ。ただ、自家消費のために氷餅を作る家庭は今も少なくない。氷餅を砕いて器に入れてお湯を注ぎ、砂糖を加えるなどして離乳食や病人食、子供のおやつにする。 車山高原レア・メモリー 諏訪の歴史散歩 車山創生記 | 八島湿原生成 | 八島遺跡群 |八島遺跡と分水界| 縄文のヒスイ | 縄文時代総説 | 縄文時代の地域的環境 | 縄文草創期 | 縄文早期 | 縄文前期 | 縄文中期 | 縄文時代の民俗学的研究 | 縄文後期 | 縄文晩期 | 弥生時代総説 | 倭国大乱 | 箕子朝鮮 | 扶余史 | 中国からの避難民 | 遼東情勢 | 衛氏朝鮮 | 長江文明 | 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