国造・和気・稲置・県主の制度 

   崇神天皇以降の地方官制度       Top  車山高原 諏訪の歴史散歩 八島ヶ原湿原

  
目次 
 1) 酒部 
 2)  国造・和気・稲置・県主
 3)  稲置
 4)  和気とは
 5)  県主とは
 6)  大碓命は、守君・大田君・島田君の祖とは
 
  

  『古事記』に「おおよそ、この大帯日子淤斯呂和氣天皇(おほたらしひこおしろわけのすめらもこと;景行天皇)の御子たちは、21王を記し、記さない59王があり、合わせて80王の中、若帯日子命(わかたらしひこのみこと;次代成務天皇)と倭建命、また五百木之入日子命(いほきのいりひこのみこと;尾張連の祖)、この3王は、太子(ひつぎのみこ)の名を負う。
 それより他の77王は、悉く国々の国造・和気(わけ)・稲置・県主に、それぞれが別け賜った。それで、若帯日子命が、天下を治め、小碓命は、東西の荒神(あらぶるかみ)と伏(まつろ)わぬ者どもを平らげた。
 次の櫛角別王(くしつのわけのおほきみ)は、茨田下連(まむだのしものむらじ)らの祖となった。次の大碓命は、守君・大田君・嶋田君の祖となった。次の神櫛王(かむくしのおほきみ)は、木国(紀ノ国)の酒部阿比古(さかべのあひこ)と宇陀酒部(うだのさかべ)の祖となり、次に豊国別王は、日向国造の祖となった。
 
    

 1)酒部  目次へ
  「神櫛王は、木国(紀ノ国)の酒部阿比古と宇陀酒部の祖」
 酒部は酒を醸造する部で、阿比古を、紀ノ国で酒部を管掌する伴造とした。阿比古は、阿弭古・吾孫・我孫とも書き、ヤマト王権の4世紀頃に置かれた朝廷内部に直属する官職であった。後に姓や氏名となった。
 紀伊国の酒部の本拠は、貞観3(861)年2月、紀伊国真川郷墾田売券に、名草郡真川郷酒部村(和歌山市府中)とあるので、当地に比定できる。
 近江国愛智郡(えち)の依知秦永吉(えちのはたのながよし)も、承和7(840)年・貞観5年に墾田を売却している。墾田の売却は、他にも例があり、通常行われていたようだ。
 宇陀は後の大和国宇陀郡で、酒部は大和・和泉・紀伊国の他に、酒部氏の分布から、近江・下野・越前・讃岐などの諸国に置かれたようだ。酒部の伴造が酒部公である。
 律令制下では、酒部は、宮内省に属し、酒・酢の醸造や、節会の酒を司った造酒司(みきのつかさ)に管掌される酒戸に編入された。造酒司に仕える酒部の前身は、大王家や神に供える酒の醸造に携わる酒人であった。
 『令義解』職員・造酒司条に「造酒司 正一人。掌醸酒醴酢事。佑一人。令史一人。酒部六十人」とある。

 10世紀には、班田制の行き詰まりと租庸調の未進・未納の常態化で、その打開策として、有力百姓を名帳(みようちよう)に登録し、その負名に、田地の請作と納税の責任を負わせた。

    

 2)国造・和気(わけ)・稲置・県主   目次へ
 『古事記』の成務記に「建内宿禰(たけうちのすくね)を大臣とし、大国と小国の国造を定め賜い、また国々の境、及び大県(おほあがた)小県(をあがた)の県主を定め賜う」とある。
 国内の首長層の再編に伴い大国造(おほくにのみやつこ)制が成立したが、その大国造の支配領域内に、他の多くの自立していた在地首長層と再編された県主が並立していた。その一方、「在地首長」 層の支配とその領域をそのまま安堵し、ヤマト王権の地方行政官として、採用された小国造(をくにのみやつこ)が並存していた。これら小国造や県の分布が、律令制下の郡名に踏襲されていった。
 4世紀前半には、丹波大県主・志幾大県主・尾張の大県主などが登場する。志幾は現在の大阪府柏原市付近である。

 『日本書紀』の成務紀4年春2月条に「今、朕が皇位を践祚し、終日、震え畏れている。しかるに、人民は、うごめく虫のように、粗野な心を改めない。それは、国郡(くにこおり)に首長がおらず、県邑(あがたむら)に首領がいないからだ。今後は、国郡に長(おさ)を立て、県邑に首(かみ)を置く。それに該当する国で、任を全うできる者を、その国郡の首長となし、これにより王城の蕃屏とする」とあった。
 同5年秋9月条に「諸国に命じ、国郡に造長(みやつこおさ)を立て、県邑に稲置を置いた。同時に楯矛(たてほこ)を賜い、その表(しるし)とした。即ち山河を隔てて国県(くにあがた)を分け、東西南北に通じる道に合わせて邑里(むら)を定めた。東西は日縦(ひのたたし)とし、南北は日横(ひのよこし)とし、山の南側を影面(かげとも)といい、山の北側を背面(そとも)といった。これにより、百姓は安居し、天下に事が起こらなくなった」とあり、地方の行政官制度が、定着した。

 『日本書紀』では、安閑天皇(531~535年)の元年閏12月条に「武蔵国造の笠原直使主(かさはらのあたひおみ)と同族の小杵(をき)が、国造の地位を相争い幾年も経つが決着しなかった(使主・小杵は、皆名である)
 小杵の気性は激しく逆らいやすく、高慢であった。密に上毛野君小熊(かみつけののきみをくま)に援けを求めて赴き、使主を謀殺しようとした。使主は、これを知り遁走し、京に詣でて事態を言上した。
 朝廷は裁断し、使主を国造とし、小杵を誅殺した。
 国造の使主は、かしこみつつも歓喜し、その感謝の念を示して、謹んで天皇に横渟(よこぬ)・橘花(たちばな)・多氷(たひ)・倉樔(くらす)の四処を屯倉として奉置した。この年は、534年にあたる」。

 『日本書紀』安閑天皇2年5月の条には多数の屯倉設置の記事があることから、この時代、ヤマト王権が各地の豪族の政争を誘発し、それを好機として、豪族の支配地の一部をさき、各地に直轄領として屯倉を設けて、その経済的基盤を一層強化すると同時に、地方の大豪族の既得権益を削いでいった。

 朝廷が武蔵国造として推す笠原直使主に対抗して、上毛野君小熊が同族の笠原直小杵を担ぎ出して対抗して敗れて、結局、四処を屯倉として献上せざるをえなくなった、というのが実情であった。
 記事の4屯倉は、ヤマト王権による、東国支配の拠点になったと考えられている。
 横渟屯倉は『和名類聚抄』にある武蔵国横見郡で、 現在の埼玉県比企郡吉見町や東京都村山市の一部が比定されている。
 橘花屯倉は、武蔵国橘樹郡(たちばなぐん:現在は神奈川県)の御宅郷や橘樹郷で、現在の神奈川県川崎市高津区子母口付近にあたる。
 多氷屯倉の「多氷」は多末(たま)の誤記とされ、武蔵国多磨郡、現在の東京都あきる野市。
 倉樔屯倉の「倉樔」を倉樹(くらき)の誤記とみられ、武蔵国久良岐郡(くらきぐん)、現在の神奈川県横浜市神奈川区、古くから陸上・海上交通の要衝であり、藤原京跡から出土した700年頃の木簡に、久良郡の文字があった。神奈川県の由来も、横浜を流れる「上無川(かながわ)」による。神奈河・神名川などとも書かれた。県名になったのは、横浜開港に伴い安政6(1859)年に「神奈川奉行所」を置いたことによる。
 これらの屯倉は、荒川と多摩川流域に位置している。特に橘花屯倉は、多摩川の河口を支配する場所である。朝廷はこれら流域を押さえ、毛野氏が海に出るルートを遮断し、朝廷が海上ルートを独占するため、あえて毛野氏に献上させた。

 多摩川が流れる武蔵国は、かつて上野国とともに東山道に属していた。当時の利根川は東京湾に乱入し、南武蔵への行路を妨げていた。ために武蔵国西部を南北に流れる多摩川を遡上し上野国に至るルートが開かれていた。それで武蔵の国府が多摩郡に置かれ、現在の東京都府中にある大国魂神社付近にあった。武蔵国が東山道から東海道に編入されたのは、奈良朝末期の宝亀2(771)年であった。

 三浦半島の東端、東京湾に面した切り立った山の斜面にある走水神社は、景行天皇80年(4世紀半ば)、日本武尊が東征の途上、ここから浦賀水道を渡る際、自分の冠を村人に与え、村人がこの冠を石櫃へ納め土中に埋めて社を建てたのが始まりと伝えられる。この地は東京湾を舟で横断する古代東海道の海上ルートで、日本武尊と弟橘媛の悲話がここに始まる。

  

 3)稲置   目次へ
 稲置は、ヤマト朝廷が、大化前代に、国造や県主よりも小区画の、地方行政官に与えた官職名である。屯倉などの稲穀を管理収納した。やがて、天武天皇が制定する八色姓(やくさのかばね)の第八位となっている。

 武略天皇以降の5世紀後半から6世紀初頭にかけて、筑紫君磐井が新羅と結び、朝廷の征新羅軍の渡海を阻む「磐井の乱」をはじめ、大豪族の反乱が多発した。ヤマト王権が豪族を介して民を間接統治する支配形態から、その豪族支配を排して、中央官僚を地方へ派遣する直接支配に移行する過渡期にあった。旧来の豪族の既得権益が奪われる状況下、その派遣は困難を極め、抵抗も生じた。そのため臣従を誓う豪族を国造として、地方行政官の末端に置き、過渡期の混乱を弥縫させようとしたが、次第に国造の実権は奪われていった。やがて、大化の改新以降は、現地地方官の末端となる郡司として採用され、中央から派遣された国宰(くにのみこともち)・国司の統率に服し、地方行政の実務を担った。

 

 4)和気とは     目次へ
 『日本書紀』景行天皇4年の春2月11日条に「(前略)そもそも天皇の子女は、前後合わせて80の御子がいた。
 日本武尊・稚足彦天皇・五百城入彦皇子を除いた外の、70余の御子は、皆国郡に封じられ、それぞれの国へ赴かれた。そのため、当今、諸国の別(わけ)というのは、その別王(わけのみこ)の苗裔なのである」とある。
 別王の苗裔が、諸国の別(和気)となったという所伝は、景行天皇の九州と東国の巡幸説話や、日本武尊の熊襲・蝦夷の征討説話と一体でとらえられ、ヤマト朝廷の全国支配が、景行紀に確立し、景行天皇が、地方官として、各地国郡に70余の御子を封じ派遣した。
 別の初めは、皇族の子孫、とりわけ王族将軍で、派遣先に領地を得た者の称号として与えられた。それは4世紀前半の垂仁天皇から景行天皇、及び日本武尊が倭を伏(まつろ)わせた時代と重なる。
 彼ら「別王(わけのみこ)」に由来する「別」は、和気・和希・和介・委居・獲居とも表記され、ヤマト王権における称号および姓の一つとみられるが、後代に、地方の氏族の称号となったようだ。
  「天皇の中にはワケを称号にもつものが6名存在する。景行天皇は、おしろわけ(大足彦忍代別)、応神天皇は、ほむだわけ(誉田別、凡牟都和希)、履中天皇は、いざほわけ(大兄去来穂別、大江之伊邪本和気)、反正天皇は、みずはわけ(多遅比瑞歯別)、顕宗天皇は、いわすわけ(袁祁之石巣別命)および天智天皇は、ひらかすわけ(天命開別)など、「わけ」を称号にもっている。
 本来「別」は、先述するように、天皇や皇族が称した称号であったが、5世紀前半、允恭天皇の氏姓制度の改革により、臣連制が再編されると、連や臣の姓に変更され、ヤマト政権への協力度が高い地方豪族には、「直」を、低い者には「君」という姓を与えた。また地方官としての官名、「稲置」もあった。
 それ以来、「別」は、地方の豪族に下賜された。そのため「別」を称する豪族は、天皇家の分流と伝えられ、一種の称号となり、畿内とその周辺国にとどまらず、西国にも分布し、後世、国造となる事例も多かった。 むしろ、地方豪族で 「別(和気)」を称している多くは、ヤマト王権に協力的であった 国造の祖といわれ、吉備国造の祖で、応神天皇の妃兄媛(えひめ)の兄は、吉備御友別(きびのみともわけ)である。
 琵琶湖の東岸を支配した近淡海安国造(ちかつあはうみのやすのくにのみやつこ)の祖は、開化天皇の皇子の彦坐王(ひこいますのおほきみ)3世孫にあたる意富多牟和気(おほたむわけ)である。なお、「安」は、近江国野洲郡(現在の滋賀県野洲市および守山市)に通じる。
 播磨国造の豊忍別 (とよおしわけ)、播磨賀毛国造(はりまのかものくにのみやつこ)の黒田別(くろだわけ)など、その例は極めて多い。しかも、その地方豪族は、乎富等大公王(おほどのおほきみ;継体天皇)の母系の系譜や和気系図でも明らかなように、歴代「別(和気)」を称していた。 別・和気・和希・獲居などの称号が、「直」「君」「臣」「連」の姓となり、氏名となるのは、稲荷山古墳出土の鉄剣銘の研究成果により、ヤマト王権が「大王」と称する時代にまで遡ると知られた。

 

 5)県主とは     目次へ
 初期のヤマト王権は、畿内のヤマト内部に、後世「御県(みあがた)」と呼ばれる朝廷の直轄領を配置していった。古文献にしばしば載る「倭の六御県(やまとのむつのみあがた)」がそれで、磯城・十市・高市・葛城・山辺・曾布(そふ;開化天皇紀にあり、後世、2つに分けられ添上郡・添下郡となった)を通常呼んでいる。
 「県」は国造の「国」より古く、ヤマト王権初期から配置された直轄領で、その密度が最も高いのが畿内ヤマトであった。 『延喜式』巻8の祈年祭の「六御県」の祝詞にあるように甘菜(あまな;アマドコロの古名)・辛菜(からな;辛みのある野菜の総称)・酒・水などの貢献地が「県」となり、当時の王領を管轄する首長が「県主」に任じられていた。
 やがて「県」の農民は王民化した。 特に三輪王権の本拠地である磯城県主家の祖先となる后妃が、特に多いのは、磯城地方の首長らを服属させ、三輪山の祭祀権を掌握すると、そこに磯城御県を置き、それぞれに御県神社を祭らせ王領化した沿革による。しだいに十市・高市・葛城・山辺・曾布にも拡大し県主家の系譜を継がせ、その地域にあった奉斎神を御県神になおさせ、祭政を伴う王権を拡充させた。
 崇神天皇紀に記されるように、新たな貢納物を収奪する体制を拡大させ、男には弓端の調(ゆはずのみつぎ;弓矢で獲った獣皮など)、女には手末の調(たなすえのみつぎ;織物・糸のみつぎ)の貢進が要求された。
  神武天皇の次代にあたる綏靖天皇(すいぜい)から崇神天皇の前代にあたる開化天皇の時代を闕史時代と言うが、考古学を学ぶものとして残念なのは、綏靖天皇の前王にあたる初代神武天皇自体、考古学的な調査によるも、その事績がたどれない。
  しかしながら、その闕史時代に、記紀の王室に登場する后妃の多くが、後世のヤマトの県主が祖先とする系譜に属していた。「神武紀、神武東征伝」において「兄磯城(えしき)」「弟磯城(おとしき)」として初出するが、記紀に登場する最初の古代豪族の1つである。
 闕史八代には事績の記載はないが、『日本書紀』では磯城県主の祖女と明記する后妃は、7例(古事記は3例)もある。十市県主祖女は、2例(記は1例)、春日県主祖女は、2例(記は1例)となっている。  
 元々ヤマト(三輪山西麓)の在地豪族で、大王家誕生の際に、重要な役割を果たしようだ。それによりヤマト大王家の姻族となり、磯城地域を中心とするヤマトの統合に重要な功績を果した。
  『日本書紀』には丹波大県主の1例が載る。丹波国は、より古代に遡ると、その領域は曖昧に広がる。本貫地の丹後、それに但馬、若狭、さらに山城や摂津の一部までも含んでいたようだ。広大であるが山間部が殆どで、それほど広くもない小盆地が飛び飛びにある。 また三輪山の麓、天理市には丹波市町(たんばいちちょう)があった。
 丹波市町は、昭和29(1,954)年まで、奈良県山辺郡にあった町で、現在の天理市中心部から東の山間部にかけての一帯にあたる。山辺郡の郡衙の所在地でもあった。
  『日本書紀』には崇神天皇10年9月「大彦命を以て北陸に遣し、武渟川別(たけぬなかわわけ)を東海に遣し 吉備津彦を西海に遣し 丹波道主命(たんばのみちぬしのみこと)を丹波に遺したまう。よって詔(つ)げて日く 若し教(のり)を受けざる者あらば 乃ち兵を挙げて伐て」とある。いわゆる四道将軍が派遣された記事である。
 丹波道主命は第9代開化天皇の孫で、第12代景行天皇の外祖父である。 開化天皇の妃竹野媛(たかのひめ)は、丹波の大県主の由碁理(ゆごり)の娘である。その時代の大県主は、大和の以外では丹波と河内の志幾大県主とがあるだけであり、皇妃を出している多くが大和の県主であった。他には丹波の大県主のみである。後に丹波の国名ができるが、県主の名がそのまま国名と採用されるのは、丹波と対馬しかない。  
  『古事記』の雄略記に「(雄略天皇)が娶る前、大后(おほきさき:皇后;若日下部王;わかくさかべのおほきみ;仁徳天皇の皇女)が日下(東大阪市に日下町)辺りに居た時、雄略天皇は、日下の直越の道(くさかのただこえみち;生駒山の暗峠“くらがりとうげ”越えの道)より、河内に行幸した。その際、山の上に登り国内(くぬち)を望むと、堅魚木(かつおぎ)を上げって」屋根を造る家があった。天皇はその家に問わせて「その堅魚木を上げて舎(や)を作るのは誰の家か」と、答えて「志幾の大県主の家なり」という。 天皇は「下賤なやつが、自分の家を天皇の御舎(みあらか;宮殿)に似せて造った」といい、人を遣わしその家を焼かせようとした時、そこの大県主が畏懼し、稽首して「奴(やつこ)であれば、奴のなせるまま、愚かにも過ちをしでかし大変畏れ多いことです。そこで、稽首して祈願し奉納する物を奉ります」と申した。
 白犬(白色の動物は神聖視された)に布を背負わせ、鈴をつけて、一族の名が腰佩(こしはき)という人に、犬の縄を取らせて献上した。 そのため、火をつけることを止めさせた。そして、若日下部王のもとへ行幸する途上、使者を先行させて、その犬を添え賜うにあたり「この物は、今日、途中で得られた珍奇な物であったため、妻訪いの結納品とする」と、使者を遣わし詔(つ)げられた。
 それで、若日下部王は、天皇の使者に奏(もう)され「(日嗣の天皇が)日を背にして行幸されたとは、余りにも畏れ多い。己(おの)が直ちに参上して仕え奉ります」。こうして、長谷の朝倉宮(長谷は泊瀬で奈良県桜井市初瀬町)まで還上して宮に住まわれる途上、生駒山の暗峠に行き歌われた(原文は万葉仮名の倭文体)、

  日下辺りの 此方(こち)の山(生駒山地)と 畳薦(たたみこも;幾重にも重ねて編む;「平群(へぐり)」にかかる枕詞)平群の山の 此方此方の 山の峡(かひ)に 立ち栄(さか)ゆる 
 葉広熊白梼(はびろくまかし;葉を広げる大きな樫の木) 本(もと;根元)には い隠竹生ひ(“い”は接頭語;くみだけおい;繁茂する竹が生え) 末辺(すえへ;木の頂の辺りの斜面)には た繁竹生ひ 
 
い隠竹 い隠みは寝ず(いくみはねず;組み合って寝はしない) た繁竹 確には率寝(いね;連れていって共寝をする)ず 後も隠み寝む(のちもくみねむ;今度は、組み合って寝ましょう) 
 その思ひ妻(私が愛する人よ) あはれ(愛しい)

 この歌を持たせて使いを返した」
 
 先述するように、初期のヤマト王権は、畿内のヤマト内部に、後世「御県(みあがた)」と呼ばれる朝廷の直轄領を配置していった。古文献にしばしば載る「倭の六御県(やまとのむつのみあがた)」がそれで、磯城・十市・高市・葛城・山辺・曾布(そふ;開化天皇紀にあり、後世、2つに分けられ添上郡・添下郡となった)と呼んでいる。
 「県」は国造の「国」より古く、ヤマト王権初期から配置された直轄領で、その密度が最も高いのが畿内ヤマトであった。 県名・県主の分布は、畿内を中心にして伊勢・美濃・尾張・中国・九州地方に多い。

  ヤマト(倭)では、菟田と菟田県主(宇陀郡)・春日県主(添上郡春日郷)・猛田県主(十市郡)・曾布県主(大和国添上郡・添下郡)・山辺県主(山辺郡)・十市県主(十市郡)・高市県主(高市郡)・久米県(高市郡)・志貴県主(城上郡・城下郡)・葛木県主(葛上郡・葛下郡・忍海郡)。
 河内・和泉・摂津では、大県主(河内国大県郡)・三野県主(若江郡)・茅渟県主(和泉郡)・猪名県主(河辺郡為奈郷)・志幾県主(志紀郡)・紺口県主(こむくのあがたぬし:河内国石川郡紺口郷)・三嶋県主(島上・島下郡)。
  山背(山城)では、栗隈県主(くりくま;山城国久世郡)・鴨県主(愛宕郡賀茂郷)。
 伊勢・伊賀では、川俣県造(伊勢国鈴鹿郡)・阿野県造(伊勢国安濃郡)・市志県造(伊勢国壱志郡)・飯高県造(伊勢国飯高郡)・佐那県主(伊勢国多気郡)・度逢県主(伊勢国度会郡)。
  尾張では、中島県主(中島郡)・年魚市県主(愛知郡)・丹羽県主(丹羽郡)・島田上県・下県(海部郡島田郷)。
  美濃では鴨県主(美濃国賀茂郡)・方県(美濃国方県郡方県郷)・山県(美濃国山県郡)。
 越の坂井県(越前国坂井郡)、丹波の旦波大県主(丹波国丹波郡)。
 吉備では、三野県主(備前国御野郡御野郷)・藤野(磐梨)県主(備前国磐梨郡)・苑県主(備中国下道郡曽能郷)・波区芸(はぐき)県主(笠岡市付近か)・上道県主(備前国上道郡)・川島県主(備中国浅口郡)・中県主(備中国後月郡県主郷)。
  周防の沙麼県主(佐波郡佐波郷)、讃岐の小屋県主(讃岐国三木郡?)。
 筑紫では、水沼県主・松浦県主・岡県主・伊都県主・八女県主・儺県主・山門県主・嶺県主・上妻県主。
 豊では、長峡県主・直入県主・上膳県主。
 肥では、閼宗県主・熊県主・八代県主・佐嘉県主・高来県主。
 日向では、諸県主・子湯県主。
 大隈の曽県主(大隈国贈唹郡)、薩摩の加士伎県主(薩摩国甑嶋郡?大隈国桑原郡)。
 壱岐県主(壱岐郡)と津馬県主(上県・下県郡)。
 
 景行紀の県名は、律令制後の郡名をそのまま用いた疑いはあるが、おおよそ県の領域は郡の範囲に相当している。その皇子の成務記にある「県邑」も、後世の県主の「県」の規模に達しておらず、「国郡」と表記される「郡」の規模に相当していた。そのため律令制の郡名に一致する県名が極めて多い。
 県の地域的な拡大が、畿内を中心に、中国・九州地方へ伸びていく。ヤマト政権は、東国を服属させる以前の、3世紀後半から5世紀にかけて緊張が続く、朝鮮・中国の大陸情勢を意識しながら、吉備・出雲の古代勢力を、強引に圧伏させ西方へ展開させていった。
 その「県」は、ヤマト王権が絶対的権力として確立すると、王権が設置した直轄領は拡大化され、しかも行政区画としての位置づけが強化され、その地方行政の長官が「県主」として再認識され、しかも7世紀初頭までは、国に直属する最重要な行政組織となった。
 一方、5世紀後半の479年に、吉備臣尾代は、征新羅将軍として500の蝦夷らを率いて朝鮮半島に出征したとある。既に、倭政権は、蝦夷の領域に侵入していたことになる。

 大化の改新以前に、部民制における集団で、一定の役割をもって倭王権に奉仕する大王家直属の集団があった。王家直属ゆえ御名代(みなしろ)とも呼ばれることがある。大王・王妃・王子の名をつけた王家所有の民であった。
 名代から王家に近侍する靱負(ゆげい)・杖刀人(じょうとうじん)や舎人(とねり)・采女(うねめ)・膳夫(かしわで)などを、国造など地方の在地首長の一族から徴発したが、それば地方にとって極めて有益であったため、その資質に適う人材を育成し積極的に派遣した。
  5世紀に入って倭王権が関東南部を王化すると、安康天皇以降、御名代の多くが東国に新設された。允恭天皇の王子で、しかも母は忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ)である安康・雄略天皇の兄弟は、母の名を後代に伝えるためもあって、刑部(忍坂部)を、上総(千葉県中部)・下総(千葉県北部・茨城県南西部・東京都東部)・武蔵(埼玉県・東京都)などに設けたという。安康天皇(穴穂命)の御名代が、孔王部(あなおべ)であり、下総に允恭天皇の王妃である藤原衣通郎女(ふじわらのそとおりのいらつめ)の名代部がある。    
 雄略天皇の子である清寧天皇の白髪大倭根子(しらがのおおやまとねこ)の名を負う白髪の氏姓が、武蔵・上総・下野・美濃などの東国と山背・備中などにみられ、後代、光仁天皇の諱(いみな)である白壁を避けて真壁と改められたが、その真壁郷は駿河・常陸・上野・下野・備中などにみられが、その多くは東国に偏っている。
 ヤマト王権は、驕りの極みとなり、東国の侵攻地を独占的に支配し、その土着していた民を恣意的に酷使していたようだ。東国の蝦夷に、その統治に伴う苛政と東国からの兵役負担が加重された結果、雄略天皇の死により暴発した。
 『日本書紀』雄略紀末尾に「この時(雄略天皇崩御の時)、征新羅将軍の吉備臣尾代(おしろ)が、吉備国の家に立ち寄った。あとに率いる五百の蝦夷らは、天皇が崩(かく)れたと聞き、互いに語り合い『我国を支配する天皇が、既にお崩れになった。時を逸してはならない』と互いに集結し、周辺の郡を侵冦した。
 そのため尾代は、家来を従え、蝦夷と娑婆水門(さばのみなと;広島県か山口県の海岸)で会戦となり弓の射撃戦となった。 蝦夷らは、臨機応変で、有る者は踊り、あるいは伏し、よく弓矢を避けたので、終に射ることができなくなった。
 尾代は、空に弓弦を弾き邪気を払い、海浜で、踊り伏す2隊を射殺し、遂に2つの矢(やなぐい;の訓読みは“ふくろ”)が空になった。直ちに船方を呼んで矢を探させようとしたが、船方は怖がって逃げてしまった。尾代は、それで弓を立てて、その末弭(うらはず;弓はずの上になる方)を取って、歌を詠んだ。

 瀰致阿賦耶 鳴之慮能古 阿母舉曾 枳舉曳儒阿羅毎 矩々播 枳舉曳底那
  (道にあふや 尾代の子 母にこそ 聞えずあらめ 国には 聞えてな / 新羅への出征の途中で戦闘となった尾代の子よ。このことは、母には伝わらないだろうが、故郷の人々には聞こえて欲しい)
 詠い終わると、自ら数人を斬り、更に追撃し丹波国の浦掛水門(うらかけのみなと;京都府熊野郡久美浜町浦明)に至った。その悉く、迫り寄って殺した。ある本では「追って浦掛に至った。人を遣り悉く殺させた」とある。
 
 島根県松江市大草町・大庭町の通称岡田山の丘陵上にある6世紀後半の岡田山1号墳から出土した鉄刀に「額田部臣」銘が刻まれていた。出雲地方にも名代「額田部」が置かれ、欽明天皇の娘額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)、後の推古天皇の財源となっていた。この地域の首長額田部臣がその部民を統率していた。 出雲地方にも、「県」が置かれ、その「県主」が在地の国造などの豪族を牽制していたようだ。

  

  6) 大碓命は、身毛津君・守君・大田君の祖     目次へ
  『古事記』の景行記に「大碓命は、守君・大田君・嶋田君の祖となった」とある。
 『日本書紀』の景行紀の「40年夏6月、東夷が大いに叛いて、辺境を騒がした。秋7月16日に、天皇は群卿に詔して 『今、東国が不穏で、荒ぶる神が大いに決起している。また蝦夷が悉く叛き、しばしば人民を略奪している。誰を遣わして、その乱を平定すべきか』という。群臣は皆、誰を遣わすか答えられなかった。
 日本武尊が奏言して『臣は先の西征で労(つかれ)ました。この役は、当然、大碓皇子(おほうすのみこ)の仕事とすべきです』というと、大碓皇子は愕然として、草の中に逃げ隠れた。それで使者を遣わし召し出させた。そこで天皇は責めて『汝が望まないのに、強いて遣わすわけがない。なんで、まだ賊と対峙していないのに、はなからそんなに恐れるのか』というと、美濃に封じ、封地へ行って治めさせられた。これが、おおよそ、身毛津君(むげつのきみ)・守君(もりのきみ)二族の始祖となった。」
 『新撰姓氏録』の「左京皇別下」に、牟義公は、景行天皇の皇子、大碓命の後とあり、守公は、牟義公と同氏、大碓命の後とある。
 「河内国皇別」には、守公は牟義公と同祖、大碓命の後とあり、阿礼首は守公と同祖、大碓命の後とある。
 「和泉国皇別」には、池田首は景行天皇の皇子、大碓命の後とある。
 武儀郡武芸川町(むぎぐんむげがわちょう)は、2,005年2月から、合併により関市になった。
 北美濃には牟義都国造(むげつのくにのみやつこ;牟宜都国造)の身毛津君(むげつのきみ)の一族に守君がおり、後に守宿祢(盛宿祢)を称した。
  身毛津君は、大碓命が、景行天皇の妃と迎えるはずの、三野国(美濃国)の大根王(おほねのおほきみ)の娘の弟比売を奪い、そして誕生した押黒弟日子王(おしぐろのおとひこのおほきみ)が、その祖という。
 
 『日本書紀』の雄略天皇7年の条に「8月、官者(舎人;とねり)の吉備弓削部虚空(きびのゆげべのおおぞら)は、取り急ぎ吉備の家に戻った。吉備下道臣前津屋(きびのしもみちおみのさきつや;或本では、国造の吉備臣山;やま)が、虚空が都へ戻るのを留めて使役した。何か月経っても京都にのぼることを聴き入れなかった。天皇は、身毛君大夫(むけのきみますらお)を遣わし、再度、召された。
 虚空は、召されて戻って『前津屋は、小さい女をもって天皇その人となし、大きい女を自分に見立て、競い闘わせた。いとけない小さな女が勝つと、即座に刀を抜き斬殺した。また小さい雄鶏を天皇と呼び、毛を抜き翼も切り、対して大鶏を自分の鶏と呼び、鈴・金の距(あこえ;けづめ)を著させ、競い闘わせた。羽をむしられ禿た鶏が勝つと、再び拔刀して斬殺した』と語った。天皇はこの話を聞くと、物部氏の兵士30人を遣わし、前津屋と合わせて一族70人を誅殺させた」。
  『日本書紀』允恭天皇5年秋7月14日、「殯宮大夫(もがりのみやのかみ)の玉田宿禰、殯の所に見えず」とあり、大夫を「かみ」と訓み、「殯宮を司る長官」と解している。
 顕宗天皇紀「2年春3月3日に、後苑(みその)に行幸され曲水(めぐりみず)の宴を催した。この時、賑やかに公卿大夫(まえつきみたち)・臣・連・國造・伴造を集め、宴を始めた。群臣たちは頻りに万歳を唱えた」とあり、公卿大夫を「まえつきみたち」と訓み、「天皇の御前に仕える高官の総称」とみている。
 雄略紀では「身毛君大夫(むけのきみますらお)を遣わし」とある。 『万葉集』山部宿禰赤人の歌に「大夫(ますらを)は 御狩に立たし 娘子(をとめ)らは 赤裳裾引く 清き浜びを(兵士は狩に出かけて行き 少女たちは赤い服の裾を引いて 澄んだ浜辺を歩いている)」とある。
 北美濃の牟義都国造であった身毛津君の近親が、雄略天皇の杖刀人として近侍し、舎人として雄略に寵愛されていた吉備弓削部虚空の救出を命じられ、それを果した、とみたい。

  奈良正倉院に遺る最古の戸籍、大宝2(702)年の『御野国加毛郡半布里戸籍(みのこくかもぐんはにゅうりこせき)』により、身毛津君と鴨(加毛)県主との婚姻関係が確認でき、同氏が持っていた宮中の飲料水を貢納する水取(もいとり)としての主水司(もんどのつかさ)を継承して、元正天皇が、美濃国の醴泉(れいせん;旨い味の水が湧き出る泉)への行幸へ供奉し、その醴泉を都に貢納するなどして、主水の役割を務めていった。
  文亀3(1503)年、吉田兼倶(かねとも)の著、延喜式神名帳頭註(えんぎしきじんみょうちょうとうちゅう)には、「参河国賀茂郡猿投、人皇12代景行帝第一の皇子大碓の命也、母播磨稲日大郎姫」とある。
 愛知県豊田市猿投町に、大碓命を主祭神とする猿投神社があり、その西宮の背後の猿投山の頂には大碓命の御陵がある。なお同社の伝承によれば、大碓命は美濃に封じられて後、当地の開発に尽力したが、景行天皇52年、猿投山に登る途中、蛇毒のために薨去、時に42歳という。大碓命の御陵は、宮内庁によって治定されている。
  後小松上皇の勅命により、時の内大臣洞院満季(とういんみつすえ)が編纂した本朝皇胤紹運録(ほんちょうこういんじょううんろく)には、「大碓の皇子の母播磨稲日大郎姫は、(景行)天皇2年3月、皇后に立てられた。大碓の皇子は、52年5月に薨ず。身毛津の君、守の君、大田の君、島田の君等の祖」とある。
 守部(もりべ)は、山野・陵墓・関所などの番を掌る。『半布里戸籍』から、美濃の加毛郡半布里・肩県郡肩々里・本簀郡栗栖太里・味蜂間郡春部里・山方郡三井田里などに、多数居住していた事が知られる。 大田君は美濃国の安八郡(あはちま)大田郷か大野郡大田郷に因む豪族か、『新撰姓氏録』河内皇別に「大田宿禰、大碓命の後なり」とある。大碓命系の嶋田君は、定かではないが、尾張国海部郡島田郷の豪族か。