ヤマト王権の「部民」制度の変遷           Top 車山高原の花々 歴史散歩
 
  目次
 1)部民制  ・筑紫君磐井の反乱と糟谷屯倉の関係 ・献上田が県 ・吉備氏の領内に県を設置
 2)安倍氏
 3)内廷の舎人と部民
 4)名代・子代
 5)地方の大豪族を牽制する県主・氏と姓 ・毛野氏を牽制する屯家 ・磐井の乱後の屯家と犬養部の設置 ・阿倍一族


  1)部民制
  「(垂仁)39年冬10月、五十瓊敷入彦命(いにしきいりひこのみこ)が、茅渟の菟砥(うと)の川上宮におられ、剣1千口を作り、その地名に因み剣を、川上部(かはかみのとも)といった。またの名を裸伴裸伴(あかはだかとも)ともいう。石上神宮に納めた。その後、五十瓊敷命に命じて、石上神宮の神宝を司らせた。
 一説では、五十瓊敷皇子が、茅渟の菟砥の河上に居て、河上を名乗る鍛冶を召して、大刀一千口を作らせた。この時、楯部(たてぬいべ)・倭文部(しとりべ)・神弓削部(かむゆげべ)・神矢作部(かむやはぎべ)・大穴磯部(おほあなしべ)・泊橿部(はつかしべ)・玉作部(たますりべ)・神刑部(かむおさかべ)・日置部(ひおきべ)・大刀佩部(たちはきべ)合わせて十の品部(とものみやつこ)を、五十瓊敷皇子に賜った。その一千口の大刀を、忍坂邑(おしさかのへき)に納めた。その後に、忍坂より移し、石上神宮に移した。この時、神が乞(こ)い『春日臣と同族で市河を名乗る者に、管理させよ』とのたまうので、市河に命じ管理させた。これが今の物部首の始祖であった」。
 古事記では、「川上部」を「太刀の名を伴として言うのは、1千口を1部とし、その全てを、五十瓊敷命の川上宮に由来させたことによる」としたが、「川上部」は、川上宮に付属する五十瓊敷命の名代の呼称と考えられ、その部民である川上部が作ったため、その剣の名としたようだ。
 「裸伴」とは、鞘におさめず刀身のままであったためとも、甲を着た敵でも、裸同然に切れる鋭利さを称えたためともいわれている。 「部民制」とは、5世紀前半頃から、ヤマト王権の下に発達し、初期では朝廷の官司における仕事分掌の体制である品部(ともべ)の制度が主体であった。
 名称は中国の部曲(かきべ)に由来するが、中国では奴婢を意味する。ヤマト王権下の「部民」は、元は村落単位で設定されたようで、一定の職業をもち、豪族に仕え、租税を納め、徭役に従い、その隷属する主家の名に「部」の字をつけて名字とした。
 大和朝廷に直属した手工業者とその他の技術者集団や、朝廷で労役に従事する者と特定の産物を貢納する者などがいた。いずれも「品部」といった。「品」は「しなじな」、即ち「諸々」の意である。「部」の制度自体、大和朝廷の官司の伴を中心に編成された。特に古くから編成された内廷的な伴は、豪族の一族が担い、その伴に貢納する民も含まれていた。

  『日本書紀』仁徳即位前紀に倭屯田と記す畿内にあった屯田(みた)は、歴代大王の地位に付属する日常的に供御される食料田であった。そこには、後世の田部(屯倉の耕人)のような既存の農民は存在せず、王権が周辺領主に命じ、その外部の農民による徭役労働によって経営されていた。それは天皇や個々の皇族の生活の資に充てられた後世の屯家が、朝廷が運営する直轄領であったのとは違い、農民支配を伴わない農業経営体であった。『日本書紀』も「屯田」と「屯倉」は明らかに区別していた。

  『日本書紀』の仁徳11年と13年の条にある茨田屯倉(まんだのみやけ)のように、初期の屯倉は王権による大規模な灌漑と治水により、水田開発がなされ、5世紀に入ると畿内地方で活発に開墾がなされた。この段階に入ると、農民が他の地域から移植され、倉庫や官家も設置され、屯倉首(みやけのおびと)などの原地管理者が置かれた。

 ☆筑紫君磐井の反乱と糟谷屯倉の関係
 継体21(527)年、筑紫君磐井の反乱が勃発し、1年有余の戦いの結果、継体22(528)年12月条によれば、同年11月に大将軍物部麁鹿火(あらかひ)によって斬殺され、その息子の葛子(くずこ)は、連座して死罪になるところ、それを贖うために糟谷屯倉を献上した、とある。
 筑紫君の本拠地は、現在の福岡県八女市付近である。古代、八女県があった。磐井との戦いに勝利した倭政権が、筑紫君の残存勢力を抑えるため、葛子に糟谷の地を献上するように命じた。そこは博多湾の東部地域にあり、そこを窓口として新羅と交易をしていた。その密接な関係から、新羅と同盟し、朝廷の征新羅軍を阻むため反乱に及んだ。
 また糟谷の地に多々良川が流れている。「多々良」は「蹈鞴(たたら;ふいご)」を語源とし、貝原 益軒の著書『筑前国続風土記』によれば、多々良川の川砂は砂鉄を含み、製鉄が行われていたことに由来するとある。その筑紫君の枢要な地を奪い「糟谷屯倉」として朝廷の直轄領とした。

 安康・武略紀の5世紀後半頃から6世紀初頭にかけて、「磐井の乱」など大豪族の反乱が起きている。この時期、ヤマト王権は、各地の豪族を介して民衆を間接的支配することから、その豪族の支配権を徐々に排除して、朝廷から派遣された中央官僚が直接支配するという大きな政策転換があった。当然、その抵抗は激しかったと推測され、そのため屯倉を献上し臣従を誓った豪族を優遇し、国造に任じたりし懐柔した。

 ☆献上田が県
 地方豪族がヤマト王権に服属する時、その証として自らの領地の一部を天皇に献上した。それが「献上田(あげた)」であり、「県(あがた)」の由来となった。国造は過渡期の妥協の産物で、次第にその権力も奪われ、大化改新以後は地方官の末端にあたる郡司層に編入され、中央から派遣された国司の統率下に置かれた。
 国造などの地方豪族の反乱などの鎮圧により、その所領の一部を贖罪その他の理由で朝廷に献上した結果、屯家が6世紀に入ると急激に増加する。この種の屯倉は、後の一郡に相当する規模だったことが多く、従来の住民がそのまま屯倉の民となった。
 6世紀には良田のみを選定し、朝廷より派遣された田令(たづかひ)が、外部の農民の徭役労働をもって経営し、貢税などに携わった。  
 『日本書紀』安閑元年の条「冬10月15日、天皇は大伴大連金村に勅して『朕は、4人の妻を召したが、未だに皇嗣がいない、崩じた後は朕の名は絶えてしまう。大伴の伯父(おきな;金村を親しんで呼んだ)、今、なにか方策はないか。常にこれを憂慮している』。
 大伴大連金村は奏して『それは臣(やつかれ)も憂慮していました。そもそも我が国家の天下(あめのした)に王とましますれば、皇嗣のあるなしに関わらう、必ず物によって御名を残します。どうか皇后と次妃(つぎのみめ)の為に屯倉の地を定め、後代に使い留めさせて、その事績が顕彰されるようなさいませ』。
 詔があって「許す。速やかに設置せよ」。大伴大連金村は奏して『小墾田屯倉(をはりだの)を立て、諸国の田部から選ぶ民と合わせて紗手媛(さてひめ)に賜い、櫻井屯倉(一本には「茅渟山屯倉(ちぬのやまの)」を加え給う)と諸国の田部から民を選び香々有媛 (かかりひめ)に賜い、難波屯倉と諸郡の钁丁(くわよほろ)を宅媛(やかひめ)に賜い。 これを以て後代に示し、もって昔を観させます』。 『そちが奏すように施行せよ』と詔があった」。
 小墾田屯倉は、小治田とも書く。飛鳥の地あたりで、大和国高市郡である。 安閑天皇が、皇后と妃のために、良田を選び小墾田屯倉・櫻井屯倉・茅渟山屯倉・難波屯倉を立て、それぞれに賜ったが、その生産活動は外部の農民による徭役労働に頼っていた。
 『日本書紀』安閑1年閏12月条によると、大伴大連金村を従え三嶋(大阪府三島郡;高槻市)に行幸した。天皇は、大連金村を遣わし、良田が三嶋県主の飯粒(いいぼ)の領地にないかと問われた。
 「県主飯粒は、大いに喜ばれて、謹敬して誠意を尽くし、上御野(かみのみの)・下御野・上桑原・下桑原、合わせて竹村の地(たかふのち;茨木市南部)の凡合(すべ)て40町を奉献した。
 (中略)県主飯粒は、大連金村が奉じる勅命に喜懼こもごもとなり、その子鳥樹を大連にたてまつり僮竪(しとべわらわ;少年の従者)とした」。

  同年の先の「秋7月に、詔があり『皇后の身分は、天子と同じでも外に名が出ることはない。それゆえに皇后の屯倉を樹立し、後代にその事蹟を遺せ』。
 直ちに勅使を差し向け、良田を選ばせた。勅使は勅命を奉じ、大河内直味張(おおしこうちのあたいあじはり;またの名は黒梭;くろひ)に『今、汝は、地味の肥えた実り豊かな田を奉るように』といったが、味張はそれを惜しんで、勅使を欺いて『ここの田は、日照りに水が送れず、水潦(いさらみづ;少しの出水)で水浸しになる。労力が極めて掛かるわりには、収穫が甚だ少ない』と答えた。勅使はその言葉のままに、隠すことなく復命した」。
 閏12月4日、大連金村は勅命を奉じて 「(前略)汝、大河内直味張は、国中で数にもならない百姓(おほみたから)であるのに、直ちに王の地を惜しんで、勅使の宣旨を軽んじて背いた。味張は、今後、国造になってはならない」と命じた。
 「(中略)味張は、恐懼し悔やみ、地に伏して汗を流し、大連に奏すには『愚昧な百姓の罪は万死に値します。伏してお願いいたします。郡ごとに、钁丁(くわよほろ;部曲の耕人)を春に五百丁(よほろ;成年の男子)・秋に五百丁を天皇に献上いたし、子々孫々にいたるまで絶やしません。これで命を救っていただき、後々の戒めとします』といい、別に狭井田6町を大伴大連への賂(まひな;まいない)とした。これが三嶋の竹村屯倉に、河内県の部曲(うぢやつこ;かきべ;豪族の私有民)を田部(屯倉の耕人)としたことの元(はじめ)となった」。

 ☆吉備氏の領内に県を設置
 また欽明17(556)年7月の条「秋7月6日に、蘇我大臣稻目宿禰を備前(きびのみちのくち)の児嶋郡(児島半島)に遣わし屯倉を置かせた。葛城山田直瑞子を田令とした(田令は陀豆歌;たつかひ;という)。」
 児島は瀬戸内海のほぼ中央に位置する交通の要衝である。筑紫君の「糟谷屯倉」の地と同様、海に進出する交易・軍事の要衝であった。吉備最大の豪族「下道臣(しもつみちのおみ)」から、高梁川(たかはしかわ)の河口にある児島を取り上げた。
 前年には、欽明16年7月の条に「秋7月4日に、蘇我大臣稻目宿禰と穗積磐弓臣(ほづみのいはゆみのおみ)らを遣わし、吉備の5つ郡に、白猪屯倉(しらゐのみやけ)を置かせた」とあり、かなり広い領域に屯家を設置した。銅・鉄の採掘地も含んでいた。
 欽明30(569)年の春正月に、詔で吉備の白猪屯倉では、屯家の田部を設置してから長いが、年齢が10余歳に達しているのに、籍に漏れているために賦課を免れている者が多い。膽津(いつ;王辰爾;おうじんに;の甥)を遣わして、白猪田部の丁籍(よほろのふみた)を調査し確定せよ。
 4月になって、膽津は丁(よほろ;課丁になりうる男子)を調査して、田戸(たへ)を編戸し戸籍を作成した。その功をほめて白猪史(しらゐのふひと)の姓を賜い、田令(たつかひ)に任じ、葛城山田直瑞子の副官とした(『日本書紀』)。田令は屯倉経営のために必要に応じて中央から出向する監督官である。膽津は白猪屯倉全体の田令となった。
 既に、田部の田戸を編成して丁籍を作成したが、後の定期的な再編がなく、このような不具合が生じた。 さらに敏達3(574)年10月の条に、大臣の蘇我馬子を吉備に遣わし、白猪屯倉と田部を増大して、その再編した田部の名籍(なのふみた)を白猪史膽津に授けた、とある。11日に、船史王辰爾の弟牛(うし)に詔があり、姓を賜い津史(つのふびと;難波津の税を司る)とした(『日本書紀』)。
 ヤマト政権は、各地の名族・大豪族の勢力を割き、王権に服従し帰化人としての地位の保全をはかる朝鮮半島系の渡来人を優遇した。
 曲瀬川(くぐせ)が流れ岡山県真庭市久世町(くせちょう)には、白猪屯倉の碑が建てられている。 欽明17(556)年10月条に「冬10月、蘇我大臣稲目宿禰らを倭国の高市郡(たけちのこほり)に遣わし、百済の韓人の領地に大身狭屯倉(おほむさ)を、高麗人の領地に小身狭屯倉(をむさの)を、紀国に海部屯倉(あまの)を置かせた(ある本に『各地にいる韓人を大身狭屯倉(おほむさの)の田部とし、高麗人を小身狭屯倉の田部とする。これは韓人と高麗人を田部としことで、その屯倉の号とした』」。
 朝鮮半島系の渡来人を、屯倉の田部として集住させ、その首長を田令として管理させたようだ。
 身狭は橿原市見瀬町、畝傍山の南および南東一帯をさす古代地名であった。海部屯倉に関しては『和名類聚抄』に紀伊国海部みやけ郷が記されている。
 欽明元(540)年8月の条「8月、高麗・百済・新羅・任那がともに使を遣わし朝貢し献上した。秦人・漢人ら海外より帰化した人々を召し集め、各地の国郡(くにこほり)に住まわせ、戸籍を作成した。秦人の戸数は総計7千53戸、大蔵掾(おほくらのふびと)を秦伴造とした」。
 欽明紀に、5世紀の応神朝の頃、百済から来朝した弓月君の子孫・秦大津父(はたのおほつち)を、屯家の管理・出納を司る大蔵掾(おほくらのふびと)に任じ、秦人7,053戸の戸籍を作成させ、秦伴造として管掌させた。秦氏は山背の葛野(かどの;京都市)を本拠に、京都盆地・淀川北岸一帯・近江の朴市(えち;愛知:依知秦氏)などに蕃延した。ただ当時、大蔵掾という律令制的な官名があったとは考えられない。

 6世紀の中頃、欽明紀には、まず渡来系の人々を戸籍によって支配したことが窺われる。 以上の各種の屯倉の内部には、農民が居住していないが、初期の屯倉は朝廷の経済力を飛躍的増大させた。後期になると部の発展とともに、朝廷の経済基盤を大幅に地方に拡大させ、その圧力により大豪族や国造以下の地方勢力を屈服させ従属させていった。
 大化2年の改新の詔により、屯倉は諸豪族の部曲とともに廃止が宣言された。
 部曲は臣・連以下の諸豪族が私有する農業経営地とみられ、それぞれに沿革的な特異さがあり、家内奴隷・労働奴隷・民・兵士など豪族の私有民、あるいは賃租による経営など各種の形態があった。



 2)安倍氏
 ヤマト政権の東国征服軍の将軍として指揮を執ったのは、主に物部氏や大伴氏であったが、「安倍氏」も東国出兵の将軍としての条件を備えていた。
  安倍氏は、大和国十市郡の発祥が有力で、三輪山の南のさほど遠くない寺川の上流桜井市安倍である。大化の改新(645年)に創建された安倍文殊院があり、東国への要路である桜井市・宇陀市・名張市・伊賀市・津市・松阪市を通り伊勢へ、国道165号が初瀬路・伊勢路である。
 伊勢の港からは船で北上して、東国への拠点である熱田の港に至る。 安倍氏は伊勢神宮の御饗の饗(あへ)に携わる阿倍氏(あへし)を氏名の起源とする。 「阿倍氏」がいつ頃から「安倍氏」と改めたかは、平安時代初期の延暦~弘仁年間説が有力である。
 『日本書紀』の「景行天皇53年8月、天皇は群卿に詔して「朕が愛しい子を偲ぶことは、いつまで続くのだろう。どうだろう小碓王(をうすのみこ;日本武尊)が平定した国を巡行視察したいのだが」と仰せられた。 この月、乗輿し伊勢に御幸され、転じて東海に入った。冬10月、上総国に至り、海路を渡より淡水門(あはのみなと;安房の館山湾)に渡った。この時、覚賀鳥(かくかのとり;みさご)の声が聞こえた。その鳥の形を知ろうとして、海中に入ると、白蛤(うむき;はまぐり)が取れた。膳臣の遠祖の磐鹿六鴈(いはかむつかり)は、蒲の葉を襷にして、白蛤を膾に造り進上した。天皇は、六鴈臣の功を美(ほ)め膳大伴部を賜った」。

  六鴈臣は、景行天皇の東国巡幸の途上、大蛤を御膳に供献して膳臣を賜姓され、以後、膳大伴部を管掌するようになった。 『日本書紀』の孝元天皇の条に「兄大彦命は、これ阿倍臣・膳臣・阿閉臣・狭々城山君・筑紫国造・越国造・伊賀臣、凡そ7族の始祖なり」とある。 『新撰姓氏録』の左京皇別で「膳大伴部は、阿倍朝臣と同祖、大彦命の孫磐鹿六雁命の後なり 。景行天皇の東国巡狩のおり上総国に至る。海路より淡水門にわたる。海中に出て白蛤を得る。磐鹿六雁がこれを膳にして進上。六雁を褒めて膳大伴部を賜姓」とある。その左京皇別に「杖部造(はせつかべのみやつこ)」は、「孝元天皇の皇子大彦命の後、造は同じ氏」とある。
 この「杖部」は、「駆使部(はせつかべ)」で、天皇の使節である“節”の証として授けられた「杖」を携え、全国に遣わされ、宰(みこともち)として天皇の命を奉じながら、諸国の豪族の動静を探索していた氏族であった。「杖部」は、稲荷山古墳出土の金象嵌された鉄剣銘にある「杖刀人」の中から、天皇自ら選抜したようだ。 奈良時代になると陸奥国に「杖部」が広く散在する。

 『続日本紀』に「神護景雲3(769)年3月13日、陸奥国白河郡人外正七位上丈部子老・賀美郡人丈部国益・標葉郡人正六位上丈部賀例努等十人に阿倍陸奥臣を賜姓。安積郡人外従七位下丈部直継足に阿倍安積臣を、信夫郡人外正六位上丈部大庭等に阿倍信夫臣を、柴田郡人外正六位上丈部嶋足に安倍柴田臣を、会津郡人外正八位下丈部庭虫等二人に阿倍会津臣を、磐城郡人外正六位上丈部山際に於保磐城臣を、牡鹿郡人外正八位下春日部奥麻呂等三人に武射臣を、曰理郡人外従七位上宗何部池守等三人に湯坐曰理連を、白河郡人外正七位下靭大伴部継人・黒川郡人外従六位下靭大伴部弟虫等八人に靭大伴連を、行方郡人外正六位下大伴部三田等四人に大伴行方連を、苅田郡人外正六位上大伴部人足に大伴苅田臣を、柴田郡人外従八位下大伴部福麻呂に大伴柴田臣を、磐瀬郡人外正六位上吉弥侯部人上に磐瀬朝臣を、宇多郡人外正六位下吉弥侯部文知に上毛野陸奥公を、名取郡人外正七位下吉弥侯部老人・賀美郡人外正七位下吉弥侯部大成等九人に上毛野名取朝臣を、信夫郡人外従八位下吉弥侯部足山守等七人に上毛野鍬山公を、新田郡人外大初位上吉弥侯部豊庭に上毛野中村公を、信夫郡人外少初位上吉弥侯部広国に下毛野静戸公を、玉造郡人外正七位上吉弥侯部念丸等七人に下毛野俯見公を賜姓した。みなこれは、大国造(おおくにのみやつこ)道嶋宿祢嶋足の願いによる」。
  奈良時代の称徳紀では、既に陸奥国の俘囚の首長に外位を与え、蝦夷に対する前線部隊長の職名として「丈部」を活用していたようだ。賜姓にあたっても大和朝廷の軍事氏族「大伴」「阿倍」「毛野」などに因む姓を与えていた。「丈部」に対して、「阿倍陸奥臣」「阿倍安積臣」などほとんどが「阿倍」で、「丈部嶋足」だけに「安倍柴田臣」と「安倍」を充てている。この時期なのだろうか、「阿倍」から「安倍」に改められたのは・・・・
 丈部氏は、美濃・尾張・遠江・駿河・越中・越前・佐渡・越後・陸奥などに広く散在しており、特に出雲と相模・武蔵・下総・上総・常陸・上野・下野などの東国に多く集中している。姓が連・直であるものは、東国の地方豪族に多いようで、ヤマトを由来とする阿倍氏一族とは違う。
 『続日本後紀』承和15(848)年5月13日条に「磐城団擬少毅陸奧丈部臣継島等は、阿倍陸奧臣の姓を賜った」。磐城郡の軍団で、大毅・少毅などの軍毅に次ぐ職位からか無位であった。
 8世紀以降の文書録である『正倉院宝物銘文集成』にある横見郡の郡司少領は、「杖部直」であった。横見郡は、埼玉県行田市の南にあたる比企郡吉見町である。
 『続日本紀』天平宝字8年10月条のある武蔵国造は「杖部直不破麻呂」であった。



 3)内廷の舎人と部民
 5世紀頃には、畿内及びその周辺の中小豪族を、ヤマト王権の宮廷の各種の職務を世襲的に分掌させる掃守(かにもり;宮中の掃除、敷物・設営のことなどを掌った)・殿守(とのみり)・門守(かどもり)・水取(もひとり)・膳夫(かしわで)・穴人(ししひと)などの組織が整っていった。
 5世紀半ばには、伴制が拡大・発展し、さらに伴造が伴を率いるという体制も確立された。稲荷山鉄剣にみえる乎獲居臣も、伴としての「杖刀人」集団を率いる伴造であったとみられる。
 姓には臣・連・伴造・国造などがある。臣・国造がそれぞれの地域を基盤とする首長であったのに対し、連・伴造は大伴氏・物部氏など、伴としての職掌が、その本質にあった。
 百済から渡来した技術者集団の民が、鍛部(かぬちべ)・鞍部・馬飼部・錦部などと、5世紀末頃から編成され始められると、内廷的な伴にも掃守部・殿守部・水取部・膳夫部・穴人部などと「部」の字があてられるようになる。やがて伴に貢納する民ばかりでなく、豪族の私有民も「部」と呼ばれるようになった。
 また舎人(とねり)・杖刀人(じょうとうじん)・膳夫などには、各地の首長の子弟がなった。子弟たちは都に出仕して、大王の身の回りの世話(舎人)や護衛(杖刀人)、食膳の用意(膳夫)などに就いた。

 『日本書紀』に雄略天皇は「冬10月3日、吉野宮に行幸された。6日、御馬瀬(みませ;吉野郡麻志口村?)に入り、虞人(やまつかさ;古代中国では山沢を掌る官や禽獣を掌る官)に命じ思いのまま狩をした。重なる峰に登り広野を駆けた。未だに日が傾かないのに、7・8割がた獲れた。狩をする度に大猟であった。鳥獣が尽きようとして、漸く戻られて林泉で憩われた。
 薮沢を逍遥し、狩人を休めて車から馬を解いた。群臣に尋ねて『猟場の楽しみは、膳夫を使い生肉を割(さ)くことだが、自分で割いてみてはどうだ』というと、群臣は直ぐに答えられなかった。これに天皇は大いに怒り、刀を抜いて御者の大津馬飼を斬った。この日、車駕は吉野宮より帰った。国内の民の悉く皆震え脅えた。
 皇太后と皇后は、これを聞き大いに懼れ、倭の采女日媛(うねめひのひめ)に酒を奉げて迎いに行かせた。天皇は、采女の容貌が端麗で容姿が温雅なのを見て、顔を和ませ喜色を浮かべ『朕は、汝の美しい笑顔をどうしても見たい』と互いに手を携えて、後宮に入られた。
 その後、皇太后に語った。『今日の遊猟で、禽獣をたくさん獲った。群臣と生肉を割き野饗(のあえ)をしようとした。群臣に次々と聞くと、誰も答えようとしない。それで朕は怒った』。
 皇太后は、この詔で、その本心を理解し、天皇を慰め奉るように『群臣は、陛下が遊猟の場に宍人部を置くことを、群臣に御下問されましたが、その意味が理解されませんでした。群臣が黙然としたわけは、答えるのが難しかったからです。今奉っても遅くはありません。私から始めましょう。膳臣長野(かしわでのおみながの)は能く宍膾(なます;細切りの生肉)を作ります。その者を奉らさて下さい』。
 天皇は、跪いて座礼し承り「その通りです。鄙(いや)しい人が言う、『貴相心を知る』とはこの事をいうのですね』。
 皇太后は、天皇が喜ぶのを観て、歓喜し満足された。更に有益な人を貢上しようとして『私の厨人(くりやびと;料理人)の菟田御戸部(うだのみとべ)と真鋒田高天(まさきたたかめ)の2人を、宍人部に加えることを願います』と申し上げた。 これより後、大倭国造(おおやまとのくにのみやつこ)の吾子籠宿禰(あごこのすくね)と狭穗子鳥別(さほのことりわけ)を、宍人部とした。臣・連・伴造・国造もまた、それに習い、次々に貢上した。
 この月、史戸(ふみひと;朝廷の事務官)と河上舍人部(かはかみのとのりべ)を置いた。 天皇は、時々の御心のままに、誤って人を殺すことが多かった。天下の民は、それ誹謗して『甚だ悪しき天皇』という。ただ寵愛されたのは、史部(ふみひと)の身狭村主青(むさのすぐりあを)・檜隈民使博德(ひのくまのたみのつかひはとこら)らだけであった」と言う。いずれも朝鮮系の帰化人であった。

 朝廷に直属した「品部」には、海部(あまべ)・山部(やまべ)・服部(はとりべ)・錦織部(にしごりべ)・土師部(はじべ)・須恵部(すえべ)・弓削部(ゆげべ)・麻績部(おみべ)・渡部(わたりべ:人・荷などの渡船)・犬養部(いぬかいべ)・馬飼部・鳥飼部・解部(ときべ;訴訟を職務とした部)など、文字通り様々あった。



 4)名代・子代
 大和朝廷に服属した地方首長の領有民の一部を割いて、朝廷の経済的基盤として設定した部で、天皇・后妃・皇子などの王名や宮号をにない、その生活の資養にあてられた「御名代(みなしろ)」があった。子代(こしろ)との区別は明らかではないが、子代は后妃・皇子・王子の資養にあてられた部民と考えられている。 日本で2番目に古い戸籍といわれる養老5(721)年の「下総国葛飾郡大島郷戸籍」は、「正倉院古文書正集第二十一巻」に収録されている。それに記される殆どが「孔王部(あなほべ)」の一族で「刑部(おさかべ)」が僅かにある。
 その大島郷にある「甲和里(こうわり))」と「嶋俣里(しままたのり)」は、現在の東京都の葛飾区にある「小岩」と「柴又(しばまた)」に比定されている。どちらも江戸川流域であるが、「嶋俣」は、利根川が東京湾に乱流し、湾内にいくつもの島が形成される中、多岐に分流する状況を端的に表現している。 その湿地帯に開発された村落の住民が、孔王部一族であった。孔王部は「穴穂部」とみられる。石上の穴穂の宮で即位した安康天皇が安穂皇子(あなほのみこ)だった。
 「穴穂部」は、穴穂の宮の経営のため、宮号を冠して設定された安康天皇の部民(べのたみ)であった。 「下総国葛飾郡大島郷戸籍」には、孔王部を姓とするものが546人にも上り、一郷全体を占めていた。5世紀代に東国に設定された名代が、族長のもとに共同体として一括して部民に編成され、族長を介して、調(みつぎ)・役(えたち)を貢納させたと思われる。
 地方豪族がヤマト王権に服属する際、その証として自らの領地の一部を天皇に献上した。それが「献上田(あげた)」であり、「県(あがた)」の由来となった。この場合、その耕作地と合わせて、それを耕作する民も一緒に献じられた。「県」の民は、同時に皇室領の田を耕作する職業集団となるため「田部(たべ)」と呼ばれた。その族長が「県主(あがたぬし)」となった。
 県主は、国造や伴造の「ミヤツコ」よりも古い「ヌシ」の称号をもち、また名代・子代の制度よりも古い奉仕形態とみられ、古墳時代初期の3~4世紀に遡ると考えられている。ヤマト王権が直轄する行政区分が県であり、古くは国と県を同列に扱っていたようで、同時代の地方の豪族が支配する小国家の範囲とそれほど変わらなかったとみられる。
 ヤマト王権の進出が早かった東日本地方では、後に置かれた国造が、当地の首長層の豪族から任じられたと言われているが、県主はヤマト王権への忠誠度が高い連の一族から、ヤマト王権の代権者として派遣されたようだ。 毎年、「県」の収穫物が天皇家に献納され、それが天皇家の経済を主に支えるようになった。
 「県」からあがる作物の大半は天皇の所有となったが、一部は皇后・皇子・皇女にも分与され、それぞれの財源となった。 天皇の「田部」は、宮号を冠するため安康天皇の部民は「穴穂部」となった。それ以外の皇后以下には、その所有者の御名を冠した。大島郷の戸籍にのる「刑部」は、安康天皇と雄略天皇の生母である、允恭天皇の后忍坂大中姫命(おしさかのおおなかつひめ)の「田部」として置かれた。「忍坂部(おしさかべ)」が正字となる。
 下総が、令制における地方行政区画であった五畿七道の一つ東海道に属する以前、5世紀後半にはヤマト王権が、既に及んでいたことになる。 安康天皇の弟の雄略天皇は、埼玉古墳群(さきたまこふんぐん)の稲荷山古墳から出土した鉄剣の銘文から、埼玉県行田市周辺を支配していたことが明らかになった。また銘文に「乎獲居臣(おわけのおみ)、上祖(始祖)、名は意富比意富比垝(おほひこ)」とあり、意富比意富比垝は、「孝元天皇の皇子」であり「崇神天皇の代」に北陸平定に派遣された大彦命をさすとみられ、『日本書紀』に記される四道将軍のひとりである。となれば崇神紀の4世紀初頭には、東山道に属していた武蔵は、ヤマト王権の傘下にあったとみられる。
  茨城県つくば市谷田部は、「矢田部」「八田部」とも表記され、矢田部郡及び八田部郡の地名は、名代「八田部」の名を負うものとみられる。『和名類聚抄』に常陸国河内郡7郷の1つ「八部郷(やたべのごう)」の一部であり、八部郷は仁徳天皇妃の八田若郎女(やたのわかいらつめ)のために設置された名代だったとされる。現在の谷田部は八部郷の中心地であったと言われている。
 つくば市谷田部町は、昭和30(1955)年3月31日に、 谷田部町・小野川村・葛城村・真瀬村が合併し、改めて谷田部町が発足した。その「葛城村」は、仁徳天皇の皇后が葛城石之日女(かずらぎのいわのひめ)であるので、その「田部」の地であったようだ。
 つくば市周辺の常陸国南部の豪族は、5世紀前半にはヤマト王権に服属していたようで、仁徳天皇関係の「田部」の史料が集中している。正倉院所蔵の調布には「天平宝字七年十月」の日付と共に「常陸国筑波郡栗原郷戸主多治比部(へぬしたぢひべ)」とある。現在のつくば市に栗原の地籍が遺り、戸主多治比部は多治比の宮で即位した「水歯別命(みすはわけのみこと)」、即ち仁徳天皇の皇子の反正天皇の名代部民であった。
 大鷦鷯尊(おほさざきのみこと)である仁徳天皇の「田部」は「雀部(ささぎべ)」である。つくば市谷田部町の東に、今でも大角豆(おおささぎ)という地名がある。正倉院所蔵の調布に「雀部根麻呂」と記された雀部は、谷田部町の南に位置し、かつて常陸国行方郡行方郷と呼ばれた花室川中流の右岸の台地上にあった。



 5)地方の大豪族を牽制する県主
 朝廷所属の「部」とは別に、豪族の私有民としての「部曲」が存在していた。部曲(カキ)と呼ばれ、垣根で囲われるが如く分割支配された、という意味である。
 律令制以前における豪族の私有民の大部分は、農耕に従事していたとみられるが、それぞれ職業を持ち、蘇我部・大伴部・尾張部のように主家の名を上に付けて呼ばれた。大化の改新後、特に天武朝後は公民となった。「部曲」律令制の実施に伴って廃止されていった。
  全国的規模のものとしては最古の戸籍が、天智9(670)年の庚午年籍(こうごのねんじゃく)であるが、人民が戸籍に登録されるようになると、部称は個人の氏名として残され、以後は代々父系によって継承されることになった。律令制の実施後の部称は、単に父系の血縁を表示する意義に留まり、土師氏などという豪族名となる例も多い。

 ☆氏と姓
 ヤマト政権の豪族層は、ウジと呼ばれる組織を形成していた。系譜上、祖先を同じくする同族集団、すなわち氏族を指すが、事実上は、家々が氏を単位として結合する、土着の豪族的集団であったとみられる。
  主導的立場にある家の家長が「氏の上(うじのかみ)」となって、主要構成員である「氏人(うじびと)」を統率した。氏名は、元々、出雲氏・尾張氏・毛野氏・吉備氏・紀氏などの地方の大豪族や、和邇氏・穂積氏・葛城氏・平群氏・蘇我氏・安倍氏・波多(羽田)氏・巨勢氏などの大和地方の氏族も、その本拠地・居住地の地名に由来する例が多い。やがてヤマト政権の内廷である品部に由来する物部氏・大伴氏・錦織氏・犬養氏・弓削氏・服部氏・膳氏・土師氏などや、大王の直轄領の名代の管掌者などを出自にする刑部氏・額田部氏・日置氏・日下部氏などの氏族が増えてくる。
 その氏の制度化により、それに応じた姓が与えられるようになると、その姓が政治的な位階となった。氏の組織は5世紀末以降の史料から確認できる。広範に整備されるのは6世紀のことである。 氏は血縁関係ないし血縁意識によって結ばれた多くの家からなる同族集団であったが、同時に地縁関係で結ばれた政治組織という性格をもっていた。 地方の豪族の多くは、大王との間に隷属・奉仕の関係を結び、それを前提にして「氏の上」としての名実が伴い、朝廷における一定の政治的地位や官職・職務に就く資格と、それを世襲する権利が与えられた。その氏名により、首長の出自や政治的地位・官職の高下・職務内容の違いがあり、それに応じて姓が賜与され、「部曲」の管掌が公認された。

 ☆毛野氏を牽制する屯家
 稲荷山古墳の被葬者も4世紀初頭の崇神天皇以来、代々のヤマトの大王に、帯刀したまま近侍する「杖刀人」であった。その古墳がある行田市付近の武蔵国播羅郡(はらぐん;埼玉県深谷市周辺)にも「刑部」があり、その埼玉郡には「藤原部」があった。

 『万葉集』に美しく詠まれる 足柄の 御坂(みさか)に立(た)して 袖振らば 家(いは)なる妹(いも)は 清(さや)に見(み)えもかも
 (足柄の峠に立って袖を振れば、家にいる妻ははっきりと見てくれるだろうか)
 「右の一首は、埼玉郡の上丁(かみつよぼろ;防人の一般兵士)の藤原部等母麿(ともまろ)のなり」。

 「横見郡」は比企郡(埼玉県比企郡吉見町)から別れたようだが、横見屯倉(よこみのみやけ)が置かれた。比企丘陵北側から荒川流域に広がり、古墳時代から奈良・平安時代にかけて、北武蔵の中心地であった。横見屯倉には、「日下部吉士」などが、屯倉の管掌者であった。また奈良国立文化財研究所の『平城宮発掘調査出土木簡概報』により、横見屯倉が置かれた地に、日下部があったことが知られた。
 雄略天皇の生母の忍坂大中津姫(おしさかのおおなかつひめ)と、その妹で藤原宮に住む衣通姫(そとおりひめ)の部民(藤原部)や、雄略天皇の皇后草香幡梭姫(くさかのはたびひめ;仁徳天皇の皇女)の部民が埼玉古墳群の周囲に配されている。日下部氏は、この皇后の田部に由来する。  
 この地域にヤマト大王の田部が重点的に配置されたのは、この北に利根川を挟んで大豪族の「毛野氏(けぬし)」の本拠地があったためである。
 
 武蔵国の屯倉(みくら)の設置について、『日本書紀』では、安閑天皇(531~535年)の元年閏12月条に「武蔵国造の笠原直使主(かさはらのあたひおみ)と同族の小杵(をき)が、国造の地位を相争い幾年も経つが決着しなかった(使主・小杵は、皆名である)。 小杵の気性は激しく逆らいやすく、高慢であった。密に上毛野君小熊(かみつけののきみをくま)に援けを求めて赴き、使主を謀殺しようとした。使主は、これを覚って遁走し、京に詣でて事態を言上した。 朝廷は裁断し、使主を国造とし、小杵を誅殺した。
 国造の使主は、かしこみつつも歓喜し、その感謝の念を示して、謹んで天皇に横渟(よこぬ)・橘花(たちばな)・多氷(たひ)・倉樔(くらす)の四処を屯倉として奉置した。この年は、534年にあたる」。
 
 『日本書紀』安閑天皇2年5月の条には多数の屯倉設置の記事があることから、この時期はヤマト王権が各地の豪族の政争に関与しながら各地に直轄領として屯倉を設けて、その経済的基盤を一層強化すると同時に、地方の大豪族の既得権益を削いでいった。  
 朝廷が武蔵国造として推す笠原直使主に対抗して、上毛野君小熊が同族の笠原直小杵を担ぎ出して対抗したが敗れて、四処を屯倉として献上せざるをえなくなった、というのが実態であろう。 記事の4屯倉は、ヤマト王権の東国支配の拠点をなったと考えられている。
 横渟屯倉は『和名類聚抄』にある武蔵国横見郡で、 現在の埼玉県比企郡吉見町や東京都村山市の一部に比定されている。
 橘花屯倉は、武蔵国橘樹郡(たちばなぐん:現在は神奈川県)の御宅郷や橘樹郷で、現在の神奈川県川崎市高津区子母口付近にあたる。
 多氷屯倉の「多氷」は多末(たま)の誤記とされ、武蔵国多磨郡、現在の東京都あきる野市。
 倉樔屯倉の「倉樔」を倉樹(くらき)の誤記、武蔵国久良郡(くらきぐん)、現在の神奈川県横浜市の一部。  
 これらの屯倉は、荒川と多摩川流域に位置している。特に橘花屯倉は、多摩川の河口を支配する場所である。朝廷はこれら流域を押さえ、毛野氏が海に出るルートを遮断し、朝廷の海上ルートとするため、あえて毛野氏に献上させた。
 
 多摩川が流れる武蔵国は、かつて上野国とともに東山道に属していた。当時の利根川は東京湾に乱入し、南武蔵への行路を妨げていた。ために武蔵国西部を南北に流れる多摩川を遡上し上野国に至るルートが開かれていた。それで武蔵の国府は多摩郡に置かれ、現在の東京都府中にある大国魂神社付近にあった。武蔵国が東山道から東海道に編入されたのは、奈良朝末期の宝亀2(771)年であった。  
 三浦半島の東端、東京湾に面した切り立った山の斜面にある走水神社は、景行天皇80年(4世紀半ば)、日本武尊が東征の途上、ここから浦賀水道を渡る際、自分の冠を村人に与え、村人がこの冠を石櫃へ納め土中に埋めて社を建てたのが始まりと伝えられる。この地は東京湾を舟で横断する古代東海道の海上ルートで、日本武尊と弟橘媛の悲話がここに始まる。

 ☆磐井の乱後に増大する屯家と犬養部の設置
 『日本書紀』安閑天皇2年5月条「5月9日に、筑紫に穗波屯倉・鎌屯倉、豊国(福岡県東部と大分県)に滕碕屯倉(みさきの)・桑原屯倉・肝等屯倉(かと)・大抜屯倉・我鹿屯倉(あかの)、火国(佐賀・長崎・熊本の3県)に春日部屯倉、播磨国(兵庫県西部)に越部屯倉・牛鹿屯倉、備後国(広島県東部)に後城屯倉(しつきの)・多禰屯倉(たねの)・来履屯倉(くくつの)・葉稚屯倉(はわかの)・河音屯倉(かはとの)、婀娜国(あなの;備後国安那郡・深津郡;現広島県深安郡・福山市)に胆殖屯倉(いにえの)・胆年部屯倉(いとしべの)、阿波国に春日部屯倉、紀国に経湍屯倉(ふせの)・河辺屯倉、丹波国に蘇斯岐屯倉(そしきの)、近江国に葦浦屯倉(あしうらの)、尾張国に間敷屯倉・入鹿屯倉、上毛野国に緑野屯倉、駿河国に稚贄屯倉(わかにえの)を置く。 秋8月、国々に犬養部を置く、詔があった」。
 『安閑紀』には、上記を含めて関東から九州まで屯倉が大量に配置され、合わせて41箇所の屯倉の名が記される。これに伴い犬養部が設けられた。屯家の制度が充実し、地方の官制度も整っていく。
 継体天皇22(528)年11月、征討将軍物部麁鹿火(あらかい)によって鎮圧された筑紫君磐井による「磐井の乱」と同様、武蔵国造の乱が生じたとみられる。磐井は、激しい戦いの末に麁鹿火に斬られたとする。同年12月、磐井の子の筑紫君葛子は死罪を贖うため、部曲を割いて朝廷の糟屋屯倉(現在の福岡県糟屋郡と福岡市東区)を置いた。
 大和政権は朝鮮半島における新羅の攻勢により、磐井の乱後、屯倉制や部民制を列島中に拡げていった。特に乱後の九州では、軍事的部民が配置された。大和政権は、肥後地方に日下部・壬生部・建部・久米部などに軍事的部民を設置した。物部関係では、筑紫・豊・火に及ぶが特に筑紫に多い。大伴関係では、筑紫・豊・火に分布するものの密度は低い。
 
 犬養部は犬を飼養し屯家を守衛する部民である。
 『日本書紀』には、犬養部を統率した伴造に、県犬養連(あがたのいぬかひのむらじ)・海犬養連(あまいぬかひのむらじ)・若犬養連(わかいぬかひのむらじ)・阿曇犬養連(あずみのいぬかひのむらじ)の4氏が記されている。
 諸氏は、犬養部を率いて宮門・大蔵・内蔵・地方の屯倉などヤマト国家の諸施設の守護にあたった伴造系氏族である。 この屯倉設置の記事に、上毛野国の緑野屯倉(みどののみやけ)があるが、『倭名類聚抄』には、「美止乃」と註し、郡内は11郷により編成されている。その11郷は、おおよそ今日の群馬県藤岡市と鬼石町の一部を加えた範囲とみられる。
  『日本書紀』同年の「9月3日、桜井田部連・県犬養連・難波吉士らに詔して、屯倉の税(たちから)を主掌(つかさど)らしめた。13日に、特に大伴大連金村に勅命があり『牛を難破の大隅嶋と媛嶋(ひめしま)の松原に放牧せよ。それにより名を後世に残したい』」。淀川河口の砂嘴が、砂州の島となり、放牧地となった。
 『続日本紀』霊亀2(716)年2月2日の条に「摂津国の大隅嶋と媛嶋の2牧を罷(や)めさせた」とある。

 屯倉の「税」とは、「稲穀で納められる田租」で、 稲穀は、穂から外して籾がついたままの状態であるが、精米したものよりも保存がきくことから、倉庫に納められる穀物は、この状態であることが多かった。穎稲(えいとう)は、成熟した稲を穂首で刈り取ったままの稲穂で、律令制下では、租税としては穎稲を原則としていた。穎稲は種籾として保存に適するが、稲穀は貯蔵用として優れていた。実際には穎稲と穀稲の両方で収取が行われていた。

  記紀には、安閑天皇の皇子女(おうじじょ)の記述がない。天皇に子供がなかったため、同母弟の宣化天皇が満69歳にして即位した。
 同年の「冬12月17日、安閑天皇は勾金橋宮(まがりのかなはしのみや)で崩じた。時に年70」。66歳にして即位したが、わずか4年で崩御した。高市郡金橋村は、現在の橿原市西部、金橋駅および坊城駅周辺にあたる。
   日本書紀の宣化天皇元(536)年「夏5月、詔して『食は天下の本である。黄金が万貫あっても、飢えをいやすことはできず、真珠が千箱あっても、寒さに凍えるのを救えまい。
 かの筑紫国は、遠近の国々が朝貢してくる往来の関門である。そのため海外の国は、風浪と空模様を見守って参り、賓客として朝貢する。応神天皇から朕に至るまで、稲穀を収蔵し蓄積し、先々の凶年の備えとし、厚く賓客を饗応する糧としている。国を安んずるに、これに過ぎるものはない。
 それで、朕は阿蘇仍君(あそのきみ)を遣わし、河内国の茨田郡(まむたのこほり)の屯倉の穀(もみ)を運ばせた。蘇我大臣稻目宿禰は、尾張連を遣わし、尾張国の屯倉の穀を運ばせよ。物部大連麁鹿火は、新家連(にひのみのむらじ)を遣わし、新家屯倉の穀を運ばせよ。阿倍臣は、伊賀臣を遣わし、伊賀国の屯倉の穀を運ばせよ。
 官家(みやけ;)を那津の口(ほとり;博多大津)に造り建てよ。又その筑紫・肥(ひのくに)・豊(とよのくに)の3国の屯倉は、散在して遠く離れすぎて輸送に支障がある。もし必要となった時に、急いで備えることは難しい。そのため諸郡に命じて、当座の稲穀を分け移し、那津の口に官家を建てて集めよ。非常に備え、永く民の命を守らせよ。早く郡県に命を下し、朕の心を知らせよ』。
 秋7月、物部麁鹿火大連が、薨じた。この年の太歳は丙辰なり」。
 仁徳天皇13年9月の条に「茨田屯家立つ」とある。茨田郡は現在の大阪府(河内国)の北河内郡に属していた寝屋川市・守口市・門真市・枚方市などで、『播磨国風土記』に「河内国茨田郡の枚方の里」とある。
 
 『旧事紀』の天孫本記に「物部竺志(つくし)連公は新家連」の祖とあるように、新家連は物部氏の分流で、新家首の宗家だ。新家には、新たに設けられた屯倉の意がある。そのため新家の地名は諸方に遺る。新家屯倉は、この条の記載の順序からみて、伊勢国のにあったと思われる。三重県一志郡久居町新家に物部神社がある。その伊賀国の新家屯倉に、地方官として新家首が管掌していた。

 ☆阿倍一族 
 孝元紀に、大彦命は、孝元天皇の第1皇子で、伊賀臣・阿倍臣(あへ)・膳臣・阿閉臣(あへ) ・狭狭城山君(ささきのやま:近江の安土一帯)・筑紫国造・越国造ら7つの氏族の始祖とある。いずれも臣籍降下した皇別氏族である。
 阿倍氏(あへし)は、伊勢神宮の御饗(みあへ)に携わる氏族である。阿倍氏が政治の表舞台に登場するのは、宣化紀に、大臣蘇我稲目らの下で、大臣や大連に次ぐ地位の大夫(まえつぎみ)に任ぜられた阿倍大麻呂からである。
 大御饗(おほみあへ)は、『日本書紀』の景行紀に「騰宮(あがりのみや)を作りて、大御饗を献(たてまつ)りき」とあるように、天皇が食べる食事である。景行天皇の東国行幸の際、膳臣の遠祖で、大彦命の孫の磐鹿六鴈(いはかむつかり)が、蒲の葉を襷にして、白蛤を膾に造り進上した。天皇は、六鴈臣の功を美(ほ)め膳大伴部を賜った」とある。  
 阿倍氏の本拠は、先述したように三輪山からさほど遠くない奈良県桜井市安倍であった。物部氏や大伴氏の「連」と違い、ヤマト土着の豪族「臣」であったが、古来、大御饗を大王に供する一族となった。そのための土地と貢納するものを確保する役割もあったとみられ、それを守るために阿倍(安倍)氏本家は武人化していった。やがて東国出兵の将軍として名を馳せていく。その一部が膳氏となり供御の任にあたった。膳大伴部が、武蔵国・若狭国・安房国の大伴部直あるいは大伴直の系譜となり、以後の代々子孫は天皇に供御する膳の職に就いた。  
 阿倍一族は、伊勢神宮の御饗に奉仕し、神殿に飲食を奉げたり、貴人を飲食でもてなしたりし、やがて、その氏族は「阿閉」を称し伊賀国阿拝郡(あへぐん)を本拠にした。律令制以前、阿拝郡は伊賀国に属していた。 令制国設置に伴い伊勢国が成立したが、天武天皇9(680)年に伊賀国は分離独立した。当初は2郡だったが、後に阿拝郡、山田郡、伊賀郡、名張郡の4郡になった。国府は阿拝郡に所在した。現在の伊賀市坂之下字国町にあたる。伊賀臣は阿閉氏から分立したようだ。
 
 『日本書紀』は、官家を屯家と同様にミヤケと訓ませているが、書き分けている。ミヤケの語義は御宅であるから、屋舎や倉庫の敬称で、郡家や正倉はもとより、私的な荘園の施設なども一般にミヤケと呼ばれる。ただ『日本書紀』の屯家は、国家制度としての施設であり、大化改新前の朝廷直轄領で、そのほとんどは農業経営地であった。敢えて使う官家には、政治的・軍事的拠点といった意味合いがあり、宣化元年に博多湾岸に設置された官家は「那津官家(なのつのみやけ)」と呼んでいる。  
 宣化天皇は筑紫の官家の整備を行い、大伴金村に命じて新羅に攻められている任那に援軍を送った。即位元年(536年?)に蘇我稲目が大臣となり、子の蘇我馬子以降続く蘇我氏の全盛の礎が築かれることになる。

 島根県松江市大草町・大庭町の通称岡田山の丘陵上にある6世紀後半の岡田山1号墳から出土した鉄刀に「額田部臣」銘が刻まれていた。出雲地方にも名代「額田部」が置かれ、欽明天皇の娘額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)、後の推古天皇の財源となっていた。この地域の首長額田部臣がその部民を統率していた。 出雲地方にも、「田部」が置かれ、その「県主」が在地の豪族を牽制していたようだ。